2018年02月19日 公開
2019年01月24日 更新
文化元年2月19日(1804年3月30日)、間部詮勝が生まれました。幕末に老中首座となり、井伊直弼とともに安政の大獄を進めました。吉田松陰が間部を討つ「間部要撃策」を立てたことでも知られますが、実際はどんな人物だったのでしょうか。
間部詮勝は文化元年、越前鯖江藩主・間部詮熙の3男に生まれました。幼名、鉞之進。兄の急死により文化11年(1814)、僅か11歳で鯖江藩主となります。幼い藩主・詮勝を、叔父で常陸笠間藩主の牧野貞喜が後見人となって、補佐することになりました。牧野貞喜は財政難に苦しむ笠間藩の改革を成功させた、名君として知られる人物です。
文化14年(1817)、初めて将軍徳川家斉にお目見えした詮勝は、翌文政元年(1818)、15歳で元服。同年、従五位下、下総守に任ぜられました。そして文政4年(1821)、詮勝は18歳で初めて国許に帰ります。当時、鯖江藩も慢性的な財政難に陥っていましたが、詮勝は自ら先頭に立って質素・倹約を旨とする生活を送り、藩政の目標を「質実剛健」としました。領民たちは若き藩主に多大な期待を寄せたといいます。改革には、叔父・牧野貞喜からも多くのアドバイスを受けたことでしょう。
文政9年(1826)、23歳の詮勝は幕府より奏者番に任ぜられます。奏者番とは1万石以上の譜代大名が任命される役職で、年始や節句の祝いの際に、将軍に謁見する大名を取次いで、姓名や進物の披露を行ない、また殿中の礼式を司る重要なポストでした。 何より、奏者番に任命されるということは幕政に関わることを意味し、それは将来の幕閣への入口でもあります。それまで鯖江藩主で幕政に関わった者はいなかったことから、家臣も領民も詮勝の任命を喜びました。
その期待に応えるかのように、詮勝は奏者番から天保元年(1830)には27歳で寺社奉行見習、翌年には加役に昇進。天保8年(1837)には34歳で大坂城代、さらに翌年には35歳で京都所司代に任命されるなど、目覚しい出世を遂げていきます。そして天保11年(1840)には、37歳にして西丸老中に就任(大御所家斉付、その後、将軍世子・家祥〈後の家定〉付)。幕閣の最高位に上りつめたのです。これは大御所家斉の推薦であったといいます。
ところが3年後の天保14年(1843)、詮勝は病を理由に老中職を退きました。しかし病気による辞任は表向きの理由で、実際は天保の改革を進める老中首座・水野忠邦と意見が合わず、疎まれたためであったともいいます。詮勝には、正しいと思うことは譲らない、芯の強い部分があったのでしょう。
老中を退いて後は、藩財政を立て直すために産物会所(専売品を生産・販売するための役所)を設けたり、蘭学者たちと接して海外事情の研究を進めました。また鯖江の御達山を拓き、領民たちの憩いの場として「嚮陽渓」を造るなど、藩のために尽力します。
安政5年(1858)6月、55歳の詮勝は再び幕府老中に任ぜられ、15年ぶりに幕閣に返り咲きました。黒船来航以降、攘夷か開国かで幕府も揺れている時代であり、詮勝の手腕が求められたのでしょう。詮勝は「老中勝手掛兼外国御用掛」に任ぜられます。
詮勝が老中に復帰する2カ月前、大老に就任したのが井伊直弼でした。井伊は諸般の事情から、勅許なしでの通商条約調印に踏み切り、これに反発した朝廷は水戸藩に「戊午の密勅」を下します。井伊が条約調印の釈明を行なうとして上洛させたのが、詮勝でした。
詮勝は井伊の意を受け、京都所司代・酒井忠義とともに幕府批判を行なう尊王攘夷派の摘発を行ないます。「安政の大獄」の始まりでした。 詮勝は「天下分け目のご奉公」という決死の覚悟で臨んだといいます。その弾圧は厳しく、尊攘派から「井伊の赤鬼」に対し「間部の青鬼」と呼ばれました。
こうした状況に憤慨したのが、長州の吉田松陰です。松陰は国許で、弾圧の指揮を京都でとる間部を暗殺することを藩に進言し、弟子たちにも「間部要撃策」を説いて、17名の血盟を得ました。しかしそんな松陰も、安政6年(1859)には幕府から江戸に召喚されます。
一方、間部は京都での摘発をほぼ終えた安政5年12月、参内して孝明天皇に拝謁し、条約締結の事情を言上し、それを了解する旨の勅書を得ることができました。そして翌年2月に京都を発って、江戸に戻ります。7月には老中首座となりました。
ところが詮勝が摘発し、捕縛した者たちに対して、井伊大老が主要な者を死罪という厳罰に処す方針を示します。詮勝は「それでは天下有為の士を多数失うことになる」と断固反対し、井伊と対立したため、老中を免職されることになりました。その結果、吉田松陰をはじめ多数の志士が落命し、また弾圧の張本人の井伊も、翌年、桜田門外の変で斃れました。もし詮勝がそのまま老中として残っていれば、彼も命を付け狙われることになったのかもしれません。
文久2年(1862)、詮勝の老中在職中に失政ありという理由で、幕府は鯖江藩を1万石の減封とし、詮勝は家督を息子の詮実に譲って隠居しました。その後の詮勝は幕末動乱には関わらず、「松堂」と号して詩や絵画に没頭し、明治17年(1884)に東京向島で没しました。享年81。
詮勝は志士たちを摘発し、そのために吉田松陰は「間部要撃策」を掲げましたが、詮勝自身は志士たちの考え方や行動を理解している節があり、そのために井伊の断罪に反対したのでしょう。詮勝にすれば幕府批判は処罰すべきだが、それは命を奪うほどのものではなく、ゆくゆく彼らも世の中のために役立てるべきと考えていたのかもしれません。
もし詮勝と松陰が直接対話をしていたら、意外に話は合ったのかもしれない。そんな気すらしてきます。
更新:11月23日 00:05