2017年10月27日 公開
2022年06月15日 更新
安政6年10月27日(1859年11月21日)、吉田松陰が処刑されました。長州藩の兵学者で、萩で松下村塾を開き、多くの若者を育てたことで知られます。吉田松陰については、これまでにも何度か取り上げてきましたが、今回は短い生涯の晩年と辞世について紹介してみます。
松陰が伊豆の下田で黒船への密航を試みて失敗、国禁を犯した罪で長州藩の萩・野山獄につながれたのは嘉永7年(1854)、25歳の時のことです。 しかし松陰は獄中でも時間を無駄にせず、囚人相手に『孟子』を講義する傍ら、14カ月で読破した書物は600冊以上にも及びました。強烈な向上心と、少しでも多くの人をよりよい道に導きたいという姿勢が感じられます。もちろんその根本には、国難に直面する日本を護りたいという思いがありました。
安政2年(1855)の末に出獄、生家で蟄居の身となります。しかし蟄居しながら松陰は、近在の若者に対して教育を始めました。これが松陰の松下村塾のスタートです。高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、吉田稔麿、入江九市、伊藤利助(博文)、山県小輔(有朋)、品川弥二郎、佐世八十郎(前原一誠)、山田市之允(顕義)ら、幕末明治に活躍する多くの人材が集まりました。翌年には部屋が狭いので、松陰は塾生たちとともに八畳一間を手作りで建て増しし、そこを塾舎とします。 その際、壁土を塗っていた品川弥二郎が、誤って通りかかった松陰の顔に土を落とすと、松陰は「弥二は師の顔に泥を塗るか」と言って大いに笑いました。
しかし安政5年(1858)、大老井伊直弼のもとで日米修好通商条約が結ばれ、さらにオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも相次いで条約を結びます。 これに憤慨した朝廷は、水戸藩あてに攘夷を促す密勅を下しました(戊午の密勅)。 しかし幕府はこれを由々しき事態であるとし、関係者の弾圧を開始。井伊大老は老中間部詮勝を派遣して、関係者に圧力をかけます。密勅の写しを読んだ松陰は、朝廷が攘夷の基本方針を示していることに意を強くし、逆になし崩しに通商条約を結んだばかりか、密勅の関係者の捕縛に動いている幕府に対して、怒りを覚えました。そして京都にいる間部詮勝の暗殺を考えますが、松陰の言動を過激であるとした藩当局によって、再び野山獄に投じられます。幕府を警戒しての措置でした。
しかし、幕府の手は松陰にも及び、安政6年(1859)、江戸に送られて訊問されることになります。幕府は間部暗殺の企てまでは察知していませんでしたが、松陰は自ら暗殺計画を自供した上で、外国に対する幕府の姿勢をはじめ、思うところを直言しました。その結果、最初は遠島程度のはずであった刑は、死罪となります。井伊直弼の判断であったといわれます。
松陰は死の直前まで、小伝馬町の牢屋敷で、牢名主に『孫子』を講義していました。学のない囚人たちも、松陰の話に熱心に聞き入っていたといわれます。天性の教育者の資質があったのかもしれません。そして処刑の前日までに、門弟たちに向けて『留魂録』と題する遺書を書き上げ、自分の志を継いで欲しいと願いました。その冒頭に掲げられたのが、次の句です。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置まし大和魂」
また、家族宛には『永訣書』を記し、こちらには次の句が詠まれています。
「親思ふ心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん」
前者が志士としての松陰の辞世だとすれば、後者は杉家の息子・寅次郎の、父母に対する生身の声のようにも感じられます。
また、近年では井伊直弼の懐刀であった国学者の長野主膳の手紙の巻物に、松陰の辞世が貼り付けられていたのも発見されています。
「此程に思定めし出立を けふきく古曽 嬉しかりける」
享年30。満年齢でいえば29歳の若者でした。人間としての純粋さ、無私の生き方。松陰がなぜあれだけ多くの人を惹きつけたのかを考える時、そうしたものが大きかったのではないでしょうか。
更新:11月21日 00:05