2017年03月27日 公開
2022年06月15日 更新
嘉永7年3月27日(1854年4月24日)、伊豆下田で吉田松陰が金子重輔(重之助)とともにペリー艦隊への密航を試みて、失敗しました。「下田踏海(とうかい)」です。
天保元年(1830)、長州藩の萩城下で長州藩士・杉百合之助(ゆりのすけ)の次男に生まれた松陰(通称、寅次郎)は、6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となります。翌年、大助が急死したため、兵学師範の吉田家を継いだ松陰は、叔父で同じく山鹿流兵学を修めた玉木文之進の厳格な指導を受けて、兵学者として育ちました。
当時、騒がれ始めていたのが、西洋列強の東洋進出とアヘン戦争における清国の敗北です。「兵学者として日本を守らなければならない」という志を抱いた松陰は、21歳での九州遊学を皮切りに、江戸遊学、さらに脱藩までして東北を旅します。すべて防備のための実地踏査が目的でした。また江戸では生涯の師・蘭学者の佐久間象山に出会います。
嘉永6年(1853)、江戸を再訪した松陰は、ペリー来航に直面。「これで日本武士が褌を締めなおす機会がやってきた」と語り、日本人の危機意識が目覚めることを願った松陰ですが、「西洋列強に学ぶべし」とする師・象山の言葉を受け止め、西洋見聞を志します。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の教えに基づくものでした。翌嘉永7年1月、ペリー艦隊は再び来航し、3月3日に横浜で幕府と日米和親条約を結ぶと、艦隊は下田に移動。ここで松陰は、国禁を犯して黒船に密航することを決意します。同行するのは江戸藩邸で雑役をしていた金子重輔でした。
25日夜、二人は姉崎海岸で小舟を盗んで沖に停泊する艦隊に向かいますが、波が強く断念。弁天島の祠の中で休みます。27日、たまたま浜を歩いていた米書記官に出会い、乗船を望む趣旨を書いた「投夷書」を手渡しました。そしてその深夜、二人は小舟で旗艦ポーハタン号に乗りつけることに成功します。一説に舟の艪を固定するため、自らの下帯で結んだといいますが、二人はどんな姿であったのか。昼間に渡した「投夷書」のおかげで二人はペリーに面会できましたが、ペリーは二人の気持ちは十分わかるものの、幕府の法を破るわけにはいかないと、密航を拒否します。
やむなく浜に戻った松陰は「小舟が流されたので、荷物から自分たちが密航しようとしたことは、露見する。それならばむしろ自首して、我らの気概を日本中の志士たちに知らしめよう」と、打ち首覚悟で下田奉行所に出頭しました。二人は江戸小伝馬町の獄に送られ、また小舟に残っていた書付から、師の象山も罪に問われました。
その頃、松陰が詠んだといわれるのが次の歌です。 「かくすれば かくなるものと知りながら 已(や)むに已まれぬ 大和魂」 その後、ペリーが幕府に寛大な措置を望んだこともあり、二人は国許で蟄居という比較的軽い罪で済みました。松陰が松下村塾で教え始める2年前のことです。
更新:11月23日 00:05