2017年08月04日 公開
2023年04月17日 更新
文政13年8月4日(1830年9月20日)、吉田松陰が生まれました。幕末の長州藩の兵学者で、松下村塾を開いて多くの若者を育てたことで知られます。
松下村塾で松陰がどんなことを教えたのかも重要ですが、それ以上に、松陰はどんな環境で、どんなことを教えられて育ったのかもまた、重要でしょう。吉田松陰という人物を形成したものは何であったのか。
文政13年、松陰は萩で長州藩士・杉百合之助の次男に生まれます。幼名は虎之助。通称は寅次郎。天保5年(1836)、6歳の時に、叔父で山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となりました。ところが翌年、大助が急死したため、松陰は同じく叔父で山鹿流兵学者の玉木文之進のもとで、兵学を学びます。
玉木の教育は相当に厳しかったらしく、何かの拍子に松陰が体を掻いた時に、猛烈に叱られました。玉木がいうには、「かゆみは私。掻くことは私の満足。それを許せば長じて世の中に出た時に、私利私欲を図る者になる」。玉木は松陰を、私のためではなく、公のために生きる者であれという気持ちで接していたのでしょう。確かに後年の松陰の行動を見れば、ことごとく公のために良かれというという思いが原点にあります。また松陰の死後、玉木の弟子となったのが、あの乃木希典でした。乃木の生涯は松陰とは全く異なりますが、しかし公というものが行動基準であった点は共通しています。
そもそも武士は、上に立つ者である以上、公(普通の感覚では藩、幕末の頃には内憂外患から、日本という意識が強くなります)を重んじるのは当然という教育を多かれ少なかれ受けていました。玉木文之進の場合は、それが強烈であったのかもしれません。そうした基本的な姿勢の中で玉木から兵学を学んだ松陰は、11歳の時に藩主に御前講義を行ない、そのできのよさを賞賛されました。松陰が優れていたのはもちろんでしょうが、一方で若手を育てようという藩の雰囲気も大切だったのかもしれません。
藩から厚遇された松陰はますます公のためにという思いを純粋に抱いたでしょうし、その思いは藩という枠を超えて、日本をその対象とすることになります。
更新:11月21日 00:05