長岡屯集と同じ頃、1月19日、幕府の勅書返納の圧力に反幕府感情を募らせていた激派の金子・高橋は、かねて親交の深かった薩摩藩とともに大老打倒を果たすべく計画を練り、その意を受けた木村権之衛門らは、密かに江戸の薩摩藩邸に赴いて有村俊斎の弟・有村雄助・有村次左衛門兄弟らに面会し、「井伊を討ち商館を焼き討ちするので、薩摩藩は京都を固めてほしい」との計画を打ち明けた。
薩摩藩の使者はこの日のうちに江戸を出発し、鹿児島にこの計画を速報した。その後、協議を重ねた水薩両藩有志は、井伊はじめ襲撃する要人と期日を2月10日前後と定めるなど、20数カ条の方針を決定し盟約を結んだ。もう一人の薩摩藩の使者が、急ぎ鹿児島に戻って大久保利通ら有志に詳細を伝達したのは、期日を過ぎた2月21日であった。
すでに一報の入っていた薩摩では有志が次の使者の帰着を待っていた。西郷はこの時奄美に居り、大久保利通がすぐに藩庁に建議書を出して決起を促したが、藩の実権を握っていた島津久光や藩庁は、完全にこの建議を退けた。
これにより東西が呼応した決起の計画は幻に終わった。それでも突出すべきという意見を大久保は抑えきった。
決起の期日が迫る中、水戸にいた高橋・金子たちは、2月18日、ひとまず身を潜めてから脱藩した。高橋は薩摩藩との合流を目指して中山道を上方に向かい、金子は大老襲撃の総指揮者として江戸に向かった。
この前後に相次いで激派の藩士たちが脱藩南上していったが、襲撃に関わる18人の中には、常陸二ノ宮・静神社の斎藤監物など3名の神官が含まれていた。神官は水戸藩の諸改革に重要な役割を果たしてきており、領民との間にあって重要な役割を担っていた。
江戸に参集し、居を転々としていた志士たちは、薩摩藩邸に残っていた有村兄弟と接触し、最終的な襲撃の計画を練り始めた。金子は襲撃を見届けた後、有村雄助とともに上京して孝明天皇に報告し勅諚を以て、すでに出兵しているはずの薩摩藩とともに幕政改革、皇室復興を成し遂げるということになり、残りの者が襲撃の実行隊と決した。
水戸側の実行者が一堂に会したのは、桜田門外の変の前日、3月2日夕の品川の遊郭相模屋での宴席が最初で最後だった。
3月3日、今の暦だと3月下旬にもかかわらず、江戸は朝から時ならぬ雪に見舞われていた。早朝、水戸の志士17名は、藩に累が及ぶのを避けるため、藩庁に連名で士籍・神職からの除籍願書を提出し、脱藩浪士となり、薩摩の有村治左衛門とともに、愛宕山に集結した。
愛宕山から降りた一行は、五つ時(午前8時)には桜田門外に到着。登城予定の井伊の行列を待った。五つ半(午前9時)、50名超の井伊の行列が現れた。現場指揮者の関、検視役の岡部三十郎を除く水戸の志士15名と薩摩の1名は、一発の銃声を合図に行列に斬り込んだ。
行列にいた彦根藩士たちは雪から刀を守るために、みな柄袋を掛けていて、すぐに応戦することができなかった。行列の先頭で開かれた戦端に気を取られ、駕籠の脇が手薄になったところを3人が駕籠を刀で刺し、瞬時に扉を開けて井伊の首級を挙げた。
この戦闘で水戸側は一名が討死、薩摩の有村と水戸側の三名が重傷を負うなどして自刃、残りの者たちも周辺の大名屋敷に自訴して預かりの身となった者が複数いたが、深手で没した者の他は、後に幕府の手で処刑された。この中で斎藤監物は老中・脇坂安宅邸に自訴し、「斬奸趣意書」を上程した。
将軍が幼少であるのをいいことに大老・井伊直弼は自分の権勢をふるおうとして「公論正議」を忌み憚って、大名、公家、武士たちを弾圧した。そして畏れ多くも天皇のお心をも悩ました。
井伊のような「暴横の国賊」をそのままにしては幕府の政治を乱し、「夷狄」から侮られ、害を被ることになるだろう。もとより幕府に敵対するのではなく、幕政を正しく導き、尊王攘夷をはかり、天下万民を安んじるための行為である。
どんな処分も覚悟しているが、水戸家には譴責がないようにしてほしい、と趣意書には綴られている。幕府と敵対するわけではない。政治を正すため、万民を安んずるため、これが彼らの叫びであった。
「斬奸趣意書」を上程した後、細川家預かりとなった斎藤は、深手を負っていたため起き上がることはできなかったが「君が為 積もる思いも 天津日に 融て嬉しき 今朝の淡雪」と辞世を遺し、3月8日に没した。
品川で待機していた総指揮者の金子は、井伊を討ち果たしたことを聞くと、薩摩の有村雄助とともに東海道を西へ急いだ。ところが伊勢四日市の宿で、幕府の追及が薩摩藩に及ぶことを恐れた薩摩藩の役人の手で有村ともども捕らえられ、幕府の伏見奉行に引き渡された。有村雄助はその後、薩摩に送られて切腹を命じられた。
先行して大坂にいた高橋は、薩摩との連携のために待機していたが、桜田門外の変の報が届いても、なお動きのない薩摩藩の動静を探りかねているうちに、幕府の探索の手が伸び、一戦に及んだ。四天王寺境内に逃げ込んだあと、手傷を負った高橋は子息とともに、寺役人宅で自刃した。
さて、現場指揮者の関も上方を目指したが、大坂の手前で高橋の死と薩摩挙兵せずの事実を知り、上方にとどまることの危険を感じて、そのまま西南諸藩の動静を探りに西へと向かった。
最終的には薩摩との国境に近い肥後水俣まで来て、薩摩藩の同志らに書状を送ったが、薩摩藩は関の入国を許可しなかった。関はそのまま水戸へ引き返し、水戸領北部袋田村の桜岡家など各地を転々として、最後は越後で幕吏に捕縛され江戸で斬首された。
こうして主だった志士たちは自刃、あるいは捕縛され断罪されたが、この事件の衝撃はあまりに大きかった。その影響の一つには、事件が刺激となって、水戸藩の激派の行動に歯止めが利かなくなったことである。
事件から5カ月後に斉昭が亡くなったことと相まって、文久元年(1861)の東禅寺英国公使館襲撃事件、翌年1月の坂下門外の変と、幕政を揺るがす大事件を立て続けに引き起こす要因となった。
結果的に幕府の権威低下の基点となり、その後の中央の政局に多大な影響を及ぼしたといえよう。藩内では各派の抗争の激化に結びついた。
もう一つの影響が、全国の尊王攘夷の志士たちの信望を高めたことで、関や住谷たちが説得に回りながら、ほとんど相手にされなかった状況を一変させたことである。
特に長州藩は藩論を一変させ、藩士の活動も活発になり、万延元年(1860)7月には、水長有志による丙辰丸盟約(成破同盟)を結ぶに至った。長州藩内の尊王攘夷派の動きが活発化したことで、その後の政局が大きく動いたことは言うまでもない。
いわゆる草莽の志士たちにも影響は大きかった。武蔵国血洗島村の渋沢栄一は、事変に刺激を受けて、未遂に終わったものの、上野国高崎城の乗っ取りを計画するに至る。ともかくも桜田門外の変は、全国の志士たちを刺激し、幕末維新のうねりをつくった大きな転換点であったことは間違いない。
更新:11月21日 00:05