2018年03月11日 公開
2022年03月15日 更新
徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像《茨城県水戸市・千波公園》
万延元年8月15日(1860年9月29日)、「烈公」こと水戸藩主・徳川斉昭が没しました。徳川慶喜の父としても知られます。
寛政12年(1800)、斉昭は水戸藩第7代藩主・徳川治紀の3男に生まれました。兄がいるので、斉昭が家督を継ぐ可能性は低かったものの、文政12年(1829)、8代藩主を継いでいた長兄の斉脩が33歳で他界したことで、斉昭が30歳にして9代藩主に就任します。
藩主となった斉昭は藩政改革にとりかかりますが、それは家中の気風を改めることから始めました。まずは藩校・弘道館を設置して文武を奨励し、身分が低くても能力のある人材を次々に抜擢します。藤田彪(東湖)、会沢安(正志斎)、安島帯刀、武田彦九郎(耕雲斎)、戸田忠太夫などがその一例でした。
また当時、水戸藩35万石は財政難から毎年幕府より1万石の援助金を受けていましたが、斉昭は「まずは倹約し、35万石で生活が成り立つように目指すべし」として援助金を返上、自分の食事も従来の藩主の献立ではなく、部屋住み時代の質素なものに改めさせています。
一方で、藩を挙げての大規模軍事演習「追鳥狩」を実施して藩内の結束を高めるともに、泰平に慣れた藩士たちの惰気を払い、有事に備えました。有事とは、頻繁に近海に現われるようになった外国船を意識したものです。斉昭の藩政改革は成功し、幕府も「天保の改革」の参考にしました。
面白いのは、斉昭は追鳥狩を「追鳥狩絵巻」という膨大な絵巻として記録に残しているのです。天保11年(1840)に実施した追鳥狩は、1万2000人を動員した大規模なものでしたが、その行列の様子を詳細に絵師に描かせました。正室に見せるためというのがその理由であったといいますが、後日、一人ひとりに当日の服装を再現させて描いているので正確かつ詳細です。しかもキセルをくゆらせていたり、寝転がっていたり、おしゃべりしていたりとその時の様子までリアルに再現させました。このため絵巻の長さは300mを超え、絵師が5人がかりで完成に10年を要したといいます。
斉昭は家康の遺品を調査した折にも、割れているものは割れている通り、シミのあるものはその通りに絵師に描かせて記録させました。さらに領内でカッパを見たという者がいれば、その様子を聞きだして絵師に描かせてもいます。斉昭は非常に好奇心が強いのとともに、何事も記録せずにはいられない「記録マニア」の一面があったのかもしれません。どこか水戸藩の「大日本史」にも通じます。
嘉永6年(1853)、ペリー来航に際して、幕府老中・阿部正弘の要請で、斉昭が幕府の海防参与に任じられたことはよく知られています。斉昭は強硬な尊皇攘夷論を展開しますが、しかし一方で「内戦外和」の真意を阿部に示しており、実は斉昭の表向きの主張は、危機感によって日本人の国防意識を高めるための方便でした。ある意味、追鳥狩に似ています。
その後、大老・井伊直弼の政策と衝突しますが、外国に対する意識においては、斉昭も井伊も現状では開国はやむを得ないが、いずれ国力をつけて攘夷を実行できる実力を備えることを目指す点で一致しています。しかしそれを従来の幕閣主導で行なうか、開明派大名を登用する幕政改革を行なって実行するかという点で、決裂したのです。
これはどちらが正しいという問題ではなく、信念のぶつかり合いであり、斉昭も井伊も日本のために良かれという点では一緒でした。なお井伊家では毎年、彦根牛の牛肉の味噌漬けを将軍家と御三家に贈っており、斉昭も大好物であったといいます。井伊の反対派は直弼のことを「彦根の牛」と陰口を叩きましたが、斉昭の場合は「あの肉は旨いよなあ」という親しみが多少、込められていたのかもしれません。
斉昭は安政の大獄により、国許での永蟄居となります。その結果、斉昭の処分と勅諚返納に激昂した水戸浪士により、井伊は桜田門外で暗殺されます。そして5ヵ月後の万延元年8月15日、斉昭もまた蟄居のまま急逝しました。享年61。もし、斉昭と直弼が腹を割って話し合っていたら、あるいは歴史は変わっていたのかもしれません。
更新:11月23日 00:05