2017年07月07日 公開
2022年07月07日 更新
回天神社(茨城県水戸市)
安政の大獄、桜田門外の変、天狗党の乱などで国事に殉じた水戸藩士を中心とした志士を祀る。社名は藤田東湖の『回天詩史』に由来。
元治元年7月7日(1864年8月8日)、水戸藩天狗党と諸藩連合軍との戦いが始まりました。天狗党の乱、あるいは元治甲子の変として知られます。
天狗党の筑波山挙兵から敦賀での悲劇的な最期までは、ぜひ吉村昭さんの『天狗争乱』をご一読されることをお勧めします。天狗党については、その目的についても、また彼らがどんな人々であったかも誤解されて語られている部分が少なくないように感じます。
水戸藩が「水戸学」をもとにした尊王攘夷思想の発信地であることはよく知られています。藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎ら優れた学者を輩出し、吉田松陰も真木和泉もはるばる水戸を訪れて教えを受けました。西郷隆盛も大きな影響を受けています。
「尊王攘夷」というと過激な思想のように思われるかもしれませんが、天皇を尊び、外国の侵略から日本を守るという意味で、アヘン戦争やペリーの砲艦外交の本質を知る当時の知識人には、しごく当然の考え方でした。明治維新の基本精神でもあります。
水戸藩は徳川家の御三家でもありますから、尊王攘夷は天皇を尊び、幕府を敬いながら(尊王敬幕)、日本人が一丸となって実行すべきとし、そこに矛盾はありません。ところが安政年間に、朝廷から水戸藩に幕府を経ずに直接密勅が降下し、幕府の返納命令をめぐって藩内が紛糾します。尊王を重んじる者たちは朝廷に直接お返ししようと主張、一方、敬幕を重んじる者たちは幕府の命令に従って、幕府に返すべきとしました。ここに水戸藩尊王攘夷派は尊攘激派と尊攘鎮派に分裂、尊攘激派のうちの一団が脱藩し、「幕政を正すために大老を討つ」として安政7年(1860)に桜田門外の変を起こすのです。とはいえ彼らはあくまで政治を正そうとしたのであり、幕府に反抗したのではありません。
その後、京都では長州藩などを中心にした活動で攘夷実行の空気が醸成されますが、文久3年(1863)の八月十八日の政変で長州藩は失脚。懸案の一つであった孝明天皇が希望する横浜港鎖港については、実行されないままでした。これに業を煮やしたのが藤田東湖の息子・藤田小四郎らで、幕府に横浜港即時鎖港を要求すべく、水戸藩内の尊攘激派を募って筑波山で挙兵したのが天狗党の挙兵です。ちなみに彼らが自らを天狗と称したのかどうかは定かでなく、筑波勢と呼ばれていたようです。
もっとも挙兵したとはいえ、彼らの基本スタンスはあくまで「尊王敬幕」であり、幕政を正すために武力を誇示したのであって、幕府と交戦するつもりはありませんでした。しかし、挙兵を聞きつけて浪士や農民たちもこれに加わり、1400人以上に膨れ上がります。そしてその中には、藤田らの意志とは別に「討幕」を口にし、軍資金供出を拒む者に放火・殺戮を行なう者たちもいました。これが天狗党のイメージを悪化させることになります。
一方、水戸藩内では尊攘激派と対立する市川三左衛門らの保守派「諸生党」が台頭、幕府は天狗党追討の方針を固めました。7月7日には天狗党と諸藩連合軍との戦いが勃発。ところが天狗党挙兵は失脚していた長州藩を奮起させ、京都では7月19日に禁門の変が起こります。敗れた長州は朝敵となり、その騒ぎで横浜鎖港問題などは二の次となりました。
水戸藩内で実権を握った諸生党は、天狗党の親族を投獄・処刑し、これに憤った尊攘激派は江戸の藩主に働きかけて諸生党の失脚を認めさせます。 そして諸生党が占拠する水戸城を奪還するため、藩主名代として支藩である宍戸藩主・松平頼徳が水戸に向かいました。ところが失脚を怖れた諸生党の市川らは松平を城に入れず、幕府へ松平を天狗党の一味と報告し、追討の対象に加えることに成功します。松平一行はやむを得ず天狗党と協力して諸生党と戦いますが敗れ、松平は責任を取って切腹することになります。
松平勢の敗北と幕府から追討令が出されたことを知った天狗党は、武田耕雲斎を頭とし、「京都の一橋慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷の志を伝える」ことを目的に、諸藩の追討を退けながら中山道の難路をはるばる京都へ向かうことになりました。その苦難と、敦賀まで至った彼らを待ち受ける悲劇、そして加賀藩士・永原甚七郎らの武士道は、ぜひ『天狗争乱』をお読みいただければと思います。涙なしには語れません。
更新:11月22日 00:05