2020年02月12日 公開
2022年03月18日 更新
秀秋らの裏切りと西軍の崩壊を、黙って見ていた男がいる。その名は吉川広家、関ケ原における不戦の謀将である。
広家は、毛利元就の二男・吉川元春の三男だ。兄・元長の死去に伴い、吉川家の家督を継いだ。
父・元春は吉川家の養子となり、小早川家に養子入りした隆景(元就の三男、小早川秀秋の養父)とともに宗家である毛利を支え、「毛利両川」と称された。元春、隆景亡き後、広家もまた、毛利家を支える重臣の一人となった。
関ケ原の戦いでは、毛利家の当主・輝元は西軍の総大将であった。ゆえに、広家も西軍として行動するも、家康側の黒田長政と親密であり、迷いながらも水面下で交渉を続けていた。
だが、岐阜城陥落や、黒田如水・長政父子から「家康西上」の情報がもたらされたことにより、広家の迷いは消し飛んだ。
西軍は負ける。このままでは毛利は滅びる。そう確信したのか、広家は同じく毛利重臣である福原広俊と、東軍への内通を決めた。
広家と広俊は、合戦前日となる9月14日に、徳川方へ「毛利不参戦」の証として人質を送った。徳川方からは、「輝元を粗略にせず、分国は安堵する」などの起請文を得て、輝元と家康の間に和睦が結ばれた。
9月15日の合戦当日、南宮山の毛利勢は「不戦協定」に従い、微動だにしないことで東軍勝利に貢献した。こうして、広家の風変わりな関ケ原の戦いは終わりを告げた。
ところが、家康は輝元が西軍の中心人物であったことなどを理由に、毛利家の所領没収を決め、広家には一、二カ国を与えるとした。
このとき広家はこれを辞退し、毛利家存続のために全力を尽くした。最終的に、毛利家は周防・長門二カ国、30万石への減封にとどまった。
これを美談として、広家の努力が実ったものとする史料もあるが、そこには当時使用されていない言葉があることなどから、疑問視されている(光成準治氏『吉川広家』)。
ともあれ、改易はまぬかれたものの、大減封であったことは間違いなく、広家への非難は長く続いた。
だが、広家の暗躍がなければ、毛利家は滅んでいたかもしれない。広家は減封の戦犯ではなく、二カ国を死守した英雄と言えよう。
以上が、関ケ原における6人の裏切り者の物語である。その裏切りには賛否両論あろう。だが、誰もが生き残りを懸け、懸命に戦った結果なのだと信じたい。
更新:11月23日 00:05