松尾山・小早川秀秋陣跡から眺める関ヶ原古戦場
関ケ原合戦の「裏切り者」といえば、小早川秀秋が知られるが、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保、吉川広家も、東軍への内応者とされる。なぜ、彼らは西軍から東軍へと鞍替えしたのか。それぞれの胸中に迫っていくと、その決断の舞台裏が浮かび上がってくる。
※※本稿は、歴史街道 2020年1月号より転載したものです。
小早川秀秋は、秀吉の正室・高台院(北政所)の実兄である木下家定の五男と言われる。幼い頃から秀吉の養子として、高台院のもとで養育された。秀吉に慈しまれ、一時期は後継者の地位にあった。
秀吉に我が子のように愛された秀秋だが、文禄2年(1593)8月、秀吉に秀頼が誕生すると、翌年、小早川隆景(毛利元就の三男)の養子に出される。小早川家の家督と筑前などの領国を継承し、33万6千石余の大大名となったが──もしかしたら秀秋には、秀吉に厄介払いをされたとしか思えなかったかもしれない。
関ケ原の戦いが勃発したのは、秀秋が19歳のときである。
『日本戦史関ヶ原役』によれば、秀秋の軍勢は約1万5千名。8千名とする説もあるが、そうだとしても、秀秋よりも多いのは、毛利輝元の4万1500、宇喜多秀家の1万8千、龍造寺家・鍋島家の9千余くらいである。秀秋は、関ケ原屈指の軍勢規模を誇るキーマンであったのだ。
秀秋には東軍・西軍それぞれから、起請文が送られた。西軍からは「秀頼が15歳になるまで秀秋を関白職に就け、播磨国一国を与える」など、東軍からは「上方に二カ国を与える」などが約束されていたという。
東西両陣営からラブコールを受け、秀秋の心はどちらに傾いたのだろうか。一時期とはいえ、秀吉の後継者候補であった秀秋である。西軍が提示した「関白職」という条件に、心惹かれはしなかったか。
慶長5年(1600)9月15日、松尾山に布陣していた秀秋は、西軍の大谷吉継の軍勢を急襲した。白峰旬氏らの研究により、通説と異なって、開戦直後の裏切りであり、あっという間に西軍が崩壊したという説が有力だ。
この歴史に残る裏切りは、秀秋自身の意思によるものだったのだろうか。
光成準治氏『小早川隆景・秀秋』では、秀秋の寝返りは、小早川家中としての意思であり、東軍有利とみた家臣たちが、裏切りを迫ったのではないだろうか、と推測している。
自身の意思であるにせよないにせよ、秀秋は裏切り、その裏切りは新たな裏切り者を生み出すことになる。通説によれば松尾山麓に布陣していた西軍の脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の軍勢も、秀秋に呼応するように大谷隊を襲撃していったのだ。
松尾山麓に布陣し、小早川秀秋とともに寝返った脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四人のうち、秀秋に最も早く呼応したのは、脇坂安治ではないだろうか。なぜなら安治は、開戦前から家康と通じ、内通の意を明らかにしていたからだ。
脇坂安治は、近江国浅井郡脇坂出身と伝わる武将で、かつて浅井長政の傘下にあった。浅井氏滅亡後は明智光秀に属し、のちに秀吉に仕えた。
秀吉と柴田勝家が激突した賤ケ岳の戦いでは、一番槍の軍功をあげ、福島正則、加藤清正らの著名な豪傑と並んで、「賤ケ岳七本槍」の一人に名を連ねている。水軍の将としても活躍し、小田原城攻めや、朝鮮の役にも出陣している。
安治は石田三成によって東下を阻止されたため、やむを得ず西軍に従っただけという。それが真実であるなら、安治には寝返りに、躊躇いはなかったはずだ。
安治は秀秋が寝返ると、小川、朽木、赤座の軍勢らとともに、大谷隊を攻撃し、壊滅させたと伝わる。通説によれば、大谷吉継は小早川秀秋の裏切りを察していて、それに備えるために安治ら四将を松尾山に布陣させたというから皮肉なものだ。
戦後、安治は問題なく本領を安堵された。「裏切ってはいない。本来の役目を全うしただけ」──安治のそんな声が聞こえる気がする。
更新:11月21日 00:05