2017年08月06日 公開
2023年04月17日 更新
寛永3年8月6日(1626年9月26日)、脇坂安治が没しました。賤ヶ岳七本槍の一人で朝鮮出兵では水軍を率いて活躍、関ヶ原では藤堂高虎と通じて、小早川隊に呼応して東軍に寝返ったことで知られます。この脇坂家は代々、「貂(てん、イタチ科の一種)の皮」の槍鞘を行列の先頭に立てました。今回はその「貂の皮」の槍鞘にまつわる話などを紹介してみます。
安治は天文23年(1554)、脇坂安明の長男として近江国浅井郡に生まれました。通称は甚内。父親は浅井長政の家臣で、安治もはじめ浅井家に仕えたといわれます。 浅井家滅亡後、15歳の時に木下藤吉郎秀吉に拾われました。天正7年(1579)、26歳の時、秀吉は主君の織田信長から、丹波攻略に苦戦する明智光秀の援軍に赴くよう命ぜられます。秀吉は、自分は出向かずに安治におよそ300の兵を与えて、明智勢の援軍として送りました。
明智勢がてこずる黒井城は、「丹波の赤鬼」の異名を持つ猛将・赤井直正が守っています。しかしこの時、赤井は首にできた悪性の腫れ物が背中にまで広がり、戦える状態ではありませんでした。それと知った安治は放胆にも単身黒井城に使者として乗り込み、赤井に降伏するよう勧めます。さすがの赤井も安治の度胸の良さに感心し、赤井家に南北朝の昔より伝わるという「貂の皮」の槍鞘を贈りました。安治は喜びますが、皮を見ると雌の貂です。「雄の方はどこでござるか?」と安治が問うと、「なに、雄の方は、まだわしの許に居たがっておるのでな。おぬしがもし欲するのであれば、明日の卯の刻(午前6時)、己が槍先で取りに来よ」と悪戯っぽく赤井は笑います。赤井が討死を望んでいると悟った安治は、翌朝、手勢の300で城に猛攻を仕掛け、固い守りを破って城内に突入すると、真っ先に赤井の姿を求めて駆けました。「ようきた」と赤井は安治を見て嬉しそうに笑い、槍を数合あわせますが、病が進んでいた赤井は力が続かず、ついに安治に討たれます。この時、安治は赤井が持っていた雄の貂の皮を手に入れました。
以後、安治は貂の皮を二本の旗指物にして戦場を駆け、賤ヶ岳の合戦では「七本槍」の一人に数えられる活躍をします。 その後も九州征伐、小田原征伐で武功を上げ、さらに朝鮮での功績もあわせて、淡路洲本3万3000石の知行を得ました。 秀吉の死後は、徳川家康と親しくなりますが、大坂滞在時に石田三成の挙兵に巻き込まれ、不本意ながら西軍につきます。しかし、当初より家康と意を通じており、関ケ原での藤堂高虎の誘いにも、おそらく抵抗なく靡いたのでしょう。戦後は所領を安堵され、慶長14年(1609)には伊予大洲5万3000石に加増されました。しかし豊臣家への恩義は感じていたらしく、大坂の陣では中立を守り、陣が終わると家督を譲って隠居となって、大洲を去ります。
余生は京都で送り、寛永3年に没。享年73。 その後、「貂の皮」は安治から10代目の播磨龍野藩主・脇坂安董の時代に、改めて世に知られることになります。もちろん「貂の皮」の槍鞘は、行列の先頭に健在でした。脇坂安董は英邁な資質で、幕府に運動した結果、譜代大名として扱われることが叶います。寛政3年(1791)には、寺社奉行に抜擢されました。当時、寺の僧侶たちの堕落は目に余り、不正や破戒を平然と行なっていました。寺社奉行となった安董は、その取締りに厳しく乗り出します。そして大奥女中や町家の妻女を相手に淫行に耽っていた延命院の破戒僧・日道を極刑に処したのをはじめ、捜査摘発を容赦なく行ない、はびこっていた破戒僧どもを震え上がらせました。その後、安董はいったん奉行を辞任しますが、文政12年(1829)、寺社奉行に再任されます。またぞろはびこり始めていた破戒僧たちは、安董が再び奉行になったことを知ると顔色を失いました。 そしてこんな句が詠まれたといいます。
「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」
更新:12月10日 00:05