小川祐忠も、小早川秀秋に即座に呼応したと思われる。
祐忠は近江出身の武将で、かつては六角氏に従っていた。六角氏が信長に攻められて衰退した後は降伏し、信長の近江衆になったようだ。
その後、本能寺の変を経て、秀吉と明智光秀が対決した山崎の戦いに、光秀方として参戦する。周知の通り光秀は敗れるが、祐忠は敗戦後、なぜか柴田勝家に属し、勝家の甥の柴田勝豊の家老となった。光秀に従った祐忠が許された理由は、わかっていない。
さらに、勝家と秀吉が対立すると、勝豊が秀吉方に寝返ったため、祐忠も秀吉方として勝家と戦った。そして勝豊が死去すると、秀吉に仕えた。
関ケ原の戦いでは、約2千の兵を率いて参戦している。
祐忠は事前に東軍の藤堂高虎と通じていたというが、通款を明らかにはしていなかったようだ。六角氏、信長、光秀、柴田勝豊、秀吉と主を変え、生き抜いてきた祐忠のことである。戦況次第で、どちらにつくか決めようと目論んでいたのではないか。
そうだとすれば、秀秋が東軍へ寝返ったら、祐忠が採る道は一つしかない。祐忠の軍勢も大谷隊を急襲し、大力と薙刀の名手で知られる平塚為広を討ち取ったといわれる。
西軍を裏切り、名のある武将も討ち取った。これで小川家は安泰だと、祐忠は信じたはずだ。「自領の安堵に加え、どこを恩賞に貰えるだろう」と狸の皮算用もしたかもしれない。
だが、家康から下された処分は「改易」であった。それはなぜか。
事前に通款を明らかにしなかったこともあるが、『近江神崎郡志稿』には、祐忠・祐滋の父子が石田三成と交流があったこと、祐忠が悪政を敷いていたことがあげられている。いずれにせよ、したたかな生き様が、家康に厭われたのかもしれない。
祐忠は、関ケ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)に死去している。『武徳安民記』に「近比病死ス」とあるので、改易のショックで病に伏したのだろうか。だとしたら、裏切りの代償はあまりにも大きかった。
更新:11月22日 00:05