2020年02月12日 公開
2022年03月18日 更新
関ケ原合戦の「裏切り者」といえば、小早川秀秋が知られるが、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保、吉川広家も、東軍への内応者とされる。なぜ、彼らは西軍から東軍へと鞍替えしたのか。それぞれの胸中に迫っていくと、その決断の舞台裏が浮かび上がってくる。
※本稿は、歴史街道 2020年1月号より転載したものです。
朽木元綱の裏切りには二種類の説があるが、まずは、その出自からみていこう。
朽木氏は代々、近江高島郡朽木谷を領し、「将軍家奉公衆」とされる名族である。足利将軍家から寄せられる信頼は厚く、12代将軍・義晴と13代将軍・義輝が、それぞれ朽木氏を頼って朽木谷に避難してきている。
元綱は、もともとは浅井氏の麾下であった。だが、朝倉義景を攻めていた織田信長が浅井氏の離反によって退路を断たれた際、元綱は信長を歓待し、朽木谷を先導して帰京させたと伝わる。いわゆる信長の「朽木越え」だ。この後、信長の麾下となり、本能寺の変後は秀吉に属した。
関ケ原の戦いには、西軍として約6百名の軍勢を率いて参戦した。
元綱の寝返りについては、1)戦いの半ばで、初めて家康に書状を送って寝返りを表明したために、約2万石から約9千6石に減封された、2)同じ近江出身である藤堂高虎と早くから通じており、初めから予定されていた、の二つの説がある。逸話としては1)のほうが面白いが、2)が事実のようだ。
確かに、合戦後の元綱の領有は約9千6百石とされる。『朽木村史通史編』によれば、関ケ原直前の所領を2万石とする文献も存在するが、合戦前の文禄4年(1595)に秀吉から安堵されたのも、高島郡内9千2百3石2斗であり、内訳は関ケ原後に家康に安堵された地所とほぼ同じ。つまり合戦後、家康は減封を言い渡したのではなく、「旧領をそのまま下しおいた」ものであり、寝返りは前もって約束されていたとされる。
ゆえに、かねてからの約束通り、小早川秀秋が寝返ると、元綱も西軍を裏切った。
合戦を終えた15日の夜、元綱は細川忠興を頼って家康に面会し、本領9千5百95石を安堵された。
その後、元綱の二男・友綱は2代将軍・徳川秀忠の御書院番となり、三男の植綱は3代将軍・徳川家光に気に入られて常陸国土浦藩3万石の大名へと出世を遂げた。植綱の長男の植昌は、丹波国福知山城へ転封となり、明治維新まで朽木氏の支配が続いた。
この子孫の繁栄も、元綱の裏切りがあったからこそである。事前の内通工作が、奏功したと言えよう。
赤座直保は、越前国今庄の邑主(村長)で、はじめは朝倉氏の家臣だったようだ。やがて織田信長に降り、さらにその後、秀吉に仕え、小田原城攻めのとき、武蔵国の岩槻城、忍城攻めで軍功をあげ、今庄にて2万石を与えられた。
慶長3年(1598)、小早川秀秋の北ノ庄入部のときに与力となっているようなので、関ケ原以前から、秀秋と何らかの接触があったのだろうか。
関ケ原の戦いでは、合戦前に藤堂高虎から調略を受けていたとする説もあるが、直保が、いつ裏切りを決意したのかは定かでない。
直保の兵はおよそ6百名といわれる。この兵数では、仮に、西軍に忠義を尽くすつもりであったとしても、秀秋ら周囲が裏切ったとあれば、その流れに乗るしかないだろう。直保の軍勢も、大谷隊を襲撃した。
ところが、直保を待っていたのは改易処分であった。おそらく通款を明らかにしないまま合戦中に寝返り、それが家康のお気に召さなかったのではないか。
所領を没収された直保は、前田利長に仕えた。加賀松任城の守将となり、7千石を領したが、慶長11年(1606)3月に、越中国の大門川が氾濫したさいに溺死した。これも裏切りの代償なのか、不運な死である。
更新:11月23日 00:05