2020年01月28日 公開
2022年06月15日 更新
小栗忠順像
官民の指導者たちはこれを憂慮し、なんとか外国人と対等に貿易できる術を探った。そこで編み出されたのが「総合商社」なのである。
「総合商社」というと、鉛筆からミサイルまでという言葉が示すように世界中のあらゆる物品の輸出入を取り扱う貿易商社である。
この「総合商社」という企業形態、実は日本特有のものなのである。
欧米にも穀物メジャーや石油メジャーのように、貿易商社はある。しかし、どれも一分野に特化しているものばかりであり、日本の総合商社のようにあらゆる産品を扱うことはないのである。
またこの総合商社が成立したのは意外に早く、明治初期のことだった。
日本側は、どうにかして外国商人の意のままになっている今の貿易形態を変えたかった。
そのために、諸外国と直接輸出入できるルートを開拓しようとしたのである。
古くは幕末からそのプランはあった。
「兵庫商社」などである。
兵庫商社というのは、幕府の肝いりで、三井などが参加してつくられた貿易会社である。
兵庫商社は、幕臣の小栗上野介によって慶応3(1867)年に計画されたもので、日本の輸出入を一手に引き受けることを目的とした会社だった。
小栗上野介は、日本の国内業者が日本の産品を外国に輸出するときには、この兵庫商社に一旦すべて買い取らせることを義務付けようとした。
外国人を通さずに、日本人の商人だけで、輸出する仕組みをつくったのだ。これにより、外国人から日本の産品を安く買いたたかれることを防ぎ、合わせて幕府が貿易のうまみを独占しようとしたのである。
後の総合商社の原型といえる。
兵庫商社には、当時すでに大坂を代表する商人だった三井家などに出資させる予定だった。
大政奉還、戊辰戦争により、この計画自体は流れたが、その発想は三井物産などに引き継がれた。
また、この兵庫商社に対抗しようとしてつくられたのが、坂本龍馬の海援隊なのである。
坂本龍馬は兵庫商社設立の動きを察知し、「こんなものをつくられたら幕府は強大な力を持ってしまう」と危惧し、土佐藩に出資させて長崎で商社「海援隊」を起ち上げた。
そして長州藩、薩摩藩の協力を仰ぎ、関門海峡~瀬戸内海の貿易航路を独占しようという計画も立てていた。
この発想は後に、岩崎弥太郎の三菱商会に引き継がれた。
つまり、後の日本を代表する総合商社となる三井、三菱は、すでに幕末にその萌芽があったのだ。
旧岩崎邸庭園
更新:12月04日 00:05