2020年01月28日 公開
2022年06月15日 更新
旧岩崎邸庭園
※本稿は、大村大次郎著『土地と財産」で読み解く日本史』より、一部を抜粋編集したものです。
明治維新により、江戸時代の特権支配階級だった武家は、その巨大な特権を手放し、商人たちの多くはその資産を失った。明治時代は、全国民がかなりフラットな資産状態でスタートしたわけである。だが、明治も中盤以降になると新たな特権富裕者が台頭してくる。
「財閥」である。
戦前の日本では、財閥が経済社会を支配し莫大な富を所有していた。戦前日本の土地や財産を語る上で、この財閥は欠かせないものである。
そもそも財閥とはどのようにして形成されたのか?
三井、三菱などの財閥は、当初は欧米からの経済侵攻を防ぐためにつくられた「商社」が起源となっている。
日本は開国以来、輸出を奨励していた。欧米から先進的な文物を取り入れるにはお金がいる。そのお金を稼ぐために輸出が必要だったのだ。
幕末から明治にかけての日本の主力商品は生糸だった。日本の生糸は、世界的にレベルが高く、価格も安かった。
しかし、この生糸の貿易において、日本の事業者たちは外国の商人にいいようにしてやられていた。日本が開国したころの欧米の商人たちというのは、非常に狡猾で機を見るに敏であった上に、資本力もあった。そして何より、当時の国際貿易のルールというのは、欧米の商人たちがつくったものである。
当初、日本の生糸の輸出は、日本に来ていた外国商人に頼っていた。日本の業者は、国外に営業拠点を持たないため、横浜などの国際貿易港まで商品を持ってきて、外国の商人に売ることしかできなかった。
日本の商人たちは、独自の貿易ルートを持っていなかったからである。
それをいいことに外国商人たちは、かなり横暴な商売をしていた。
商品に難癖をつけて返品したり、自分たちに不利だと思えば急に契約を反古にしたりした。
また日本の商人は商品の持ち込みに際して、看貫料(商品の検査料)などの名目で不当に様々な経費を負担させられた。
明治初年、日本の生糸は、海外販売価格の二分の一、三分の一程度の値段で買いたたかれていたという。日本に来ていた外国商人は、大儲けしていたのである。
また外国商人たちは、日本の事業者の資金力が乏しいことに目をつけ日本の業者たちを手先のように操るようになった。日本の業者に、生糸の買い取り金として多額の資金を貸し与え、日本の業者はその資金を返済するために、外国商人のいいなりで取引をするようになっていったのだ。
この事態に、日本側も、黙って指をくわえていたのではなかった。
明治14(1881)年9月には、生糸商人たちが、三井、三菱、渋沢栄一などの支援のもと、横浜に「連合生糸荷預所」をつくった。
日本各地から送られてくる生糸は、ここで一旦、引き取られる。商人たちはここで妥当な価格で販売し、「連合生糸荷預所」側は妥当な価格で外国商人に引き取らせる、ということにしたのだ。
中小の生糸商人が外国商人と直接取引すれば、買いたたかれたり、不利な条件で取引を強いられたりするので、「連合生糸荷預所」という窓口をつくることで、それを防ごうということである。
しかし、これには外国商人たちが反発し、「連合生糸荷預所」からの生糸の買い入れを一切拒否した。
これを横浜連合生糸荷預所事件という。
このような圧力に屈せず、「連合生糸荷預所」は頑張ったが、約2か月資金が途絶え、外国商人側と妥協的な条件で和解した。
外国商人による不平等な商慣習はその後も続き、看貫料が廃止されたのは、大正時代になってからだった。
更新:12月04日 00:05