2019年11月13日 公開
江戸期に富籤が爆発的なブームとなったのは、幕府が唯一公認した博奕だからで、それ以外に理由はない。いわゆる博徒、渡世人などが開く賭場に素人衆が入るのは難しかったから、一点集中的に人気が出たのである。
あまりの過熱ぶりに、江戸時代を通じ、何度も禁止令が出されたほどだが、主催する寺社はさまざまな理由をつけて、富籤興行を再開した。禁止期間が長ければ長いほど、再開時には凄まじい勢いで盛り上がることとなった。
江戸期には7回富籤ブームがあったとされるが、これらはすべて禁令が解かれた時のことである。
もともと、幕府は富籤興行を奨励していなかった。少なくとも取り組み方が消極的だったのは間違いない。
寺社奉行の管轄下に置かれていたが、運営に口を挟むことはなかった。富籤の起源は神事であり、富籤とは御籖を意味する。従って歴代将軍も遠慮せざるを得なかったのである。
その取り組みを改め、積極的に幕府が容喙するとしたのが八代将軍徳川吉宗だったことは、あまり知られていないのではないだろうか。さすがは暴れん坊将軍である。
享保15年(1730)、幕府は富籤を公認した。吉宗の狙いは、富籤興行を幕府(=寺社奉行)が管理することで、売上金から冥加金(税金)を取ることだった。享保の改革で知られているように、吉宗は幕府財政改革に取り組んでおり、富籤興行の公営ギャンブル化はその一環だったのである。
そのため、全国の寺社が幕府の認可の下、富籤興行を開くようになったが、その数が多すぎて、客が集まらなくなるという問題が起きた。富籤を購入する客の数にも限りがあったから、やむを得ないだろう。
困った寺社側は当せん賞金を高額にすることで、人気回復を図った。千両富が生まれたのはもう少し後になるが、集客策としてこれ以上のものはない。
当せん賞金を高額化するには、富籤一枚の価格を上げるしかなく、夢を買うというような悠長な代物ではなくなっていた。当時ギャンブル依存症という言葉はなかったが、事実上の依存症患者が続出するようになったのである。
慌てて吉宗は富籤禁止令を出し、事態の収拾に努めるのだが、この辺りもさすが暴れん坊将軍である。
その後、富籤興行は認可と禁止が繰り返され、その度に賞金が高額になっていった。幕府は徳川家と縁の深い寺社、歴史的な名刹に限定して富籤興行開催を許可したが、一度上がった賞金を下げることはできない。客の側が納得しないのだから、高騰していくのは無理もなかった。
更新:11月23日 00:05