2019年09月25日 公開
2019年10月01日 更新
近江大津宮錦織遺跡(滋賀県大津市)
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1308年=大化4年(648年)、天智天皇の第一皇子(皇統譜)として誕生された大友皇子(伊賀皇子)で、母は伊賀郡司の娘・伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)である。
天武天皇の皇女で額田王を母とする十市皇女(従妹)を妃とされた。天智天皇8年(669年)頃、葛野王を産む。壬申の乱で父と夫が戦われたので悲痛な思いをされたことであろう。この葛野王はのち文武天皇即位にあたって重要な役割を果たされる。
皇紀1328年=天智7年(668年)2月23日、先帝・天智天皇は同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とされた。
皇紀1331年=天智10年(671年)1月5日、第一皇子の大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣に任じられる。
天智天皇としては皇太弟・大海人皇子が即位されたあと、次の天皇として大友皇子の即位を考えておられたものと推察される。
しかし大海人皇子としては、自分亡き後、自分の王子たちが何人もおられ、その状況下で甥の大友皇子を即位させることの困難さを想定しておられたのではないかとも思われる。そこで自らが出家してしまえば皇位を巡る紛争は避けられ、自身の王子たちの即位はなくなると思われた。その意味では大海人皇子は兄・天智天皇の系統が皇位を継いでいくことを想定して出家されたものと推察される。
大海人皇子が皇太弟を辞退されたので、この年10月17日、太政大臣の大友皇子が代わって立太子される。太政大臣に任じられ、ここで立太子されたので後嗣は決定した。
12月3日、父の天智天皇は称制期間を含め10年の在位にして46歳で崩御される。
12月5日、皇太子の大友皇子が弘文天皇として即位された。
年が変わって皇紀1332年=弘文元年・天武元年(672年)6月24日、壬申の乱が起きる。
天智天皇崩御並びに弘文天皇即位からわずか半年後のことで、臣下の者の助言でか、天皇が吉野の大海人皇子のもとに刺客を放たれたことが原因ともいわれる。大海人皇子は吉野を出て美濃に逃れ、豪族を味方に付けて朝廷と対峙された。
大海人皇子は必ず皇位を奪いに来ると群臣達が思ったのであろう。大海人皇子はそもそも皇太弟であられたので、そのまま即位されることになっていたのであって、皇位を奪いにくるとは、妄想ではなかったかと思われる。それに大海人皇子は吉野に下られる直前に武器を公に納めておられる。謀反を起こすというような意思があったとは思われない。
側近達が自分たちの都合で、大友皇子を即位させたいという思惑が原因だったのであろう。そして大友皇子が即位されたあと、その皇位を安定させるため、大海人皇子をここで排除しておこうと考えたのであろう。
皇紀1332年=弘文元年・天武元年(672年)7月23日、朝廷方(弘文天皇方)が乱に敗れ、大友皇子(弘文天皇)は自害し崩御される。わずか半年の在位、宝算25歳であった。
前年冬の天智天皇崩御から壬申の乱に敗れ天皇が自害されるまで、その御世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことはできなかった。そのため、以前は歴代天皇としては数えられておらず、明治3年7月になって弘文天皇と追号されて天皇として認められた。
弘文天皇を天皇として認めれば、臣下の者ですでに出家しておられた大海人皇子が天皇に反逆し、天皇を滅ぼした上で自らが即位されるという、日本の歴史上唯一の例となる。
明治3年といえば明治天皇はまだ19歳であり、明治政府はこれをどう考えたのか疑問が残る。やはり即位しておられなかったと考えるべきではないだろうか。
先帝崩御後の混乱で天皇空位の期間が発生する例はこれまでもあったことである。皇位継承問題に関して、「壬申の乱」の歴史的意味には限りなく深いものがある。
更新:11月10日 00:05