2019年09月12日 公開
2019年09月12日 更新
伝飛鳥板蓋宮跡
皇極天皇の宮殿で中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台でもある。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1314年=白雉5年10月10日、孝徳天皇が崩御される。
翌皇紀1315年=斉明元年(655年)1月3日、先々代の皇極天皇が62歳で飛鳥板蓋宮にて再び即位される。史上初の重祚である。政務は引き続き皇太子・中大兄皇子が執られた。本来、皇太子・中大兄皇子が即位されるべきであったが、この時期、朝鮮半島情勢が緊迫し、百済救援のための出兵が差し迫っていた。そこで皇極天皇に再び斉明天皇として即位(重祚)して頂く。
皇紀1316年=斉明2年(656年)、宮を難波から再び大和国飛鳥岡本宮に遷された。
皇紀1318年=斉明4年(658年)、孝徳天皇の皇子・有間皇子が、父・孝徳天皇の崩御後、政争に巻き込まれるのを避けようと、病を装って紀伊の牟婁湯(白浜温泉)へ湯治に行かれた。本来であれば先帝の皇子であるから、即位すべき立場でもあられた。
10月15日、帰朝された有間皇子から牟婁湯の素晴らしさをお聞きになった斉明天皇は、早速紀伊の牟婁湯に行幸される。
この間、留守官をしていた蘇我赤兄(蘇我倉麻呂の子で、馬子の孫)が飛鳥に残っておられた有間皇子に近づき、斉明天皇や中大兄皇子の失政を糾弾し、自分は皇子の味方であると告げ、暗に謀反を嗾ける。皇子は喜ばれ、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという意思を明らかにされた。
11月5日、蘇我赤兄は早速、有間皇子が謀反を企てていると密告する。
赤兄は皇子に謀反を嗾けておいて、それを密告しているのである。赤兄は皇位継承有力候補である有間皇子を陥れ潰したかったのか、何らかの手柄を作りたかったのか不明であるが、のち天智10年、左大臣に任じられているので、この時の功績を評価されたとも考えられる。
蘇我氏は馬子をはじめとして、代々、その時の皇位継承候補者を、自分たちの都合により殺害し、皇位継承に大きな負の影響を与え続けている。
11月9日、有間皇子は皇太子・中大兄皇子に尋問され、「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えられた。実際に有間皇子が何処まで謀反の意向を持って準備しておられたかは不明であるが、期間が1ヶ月そこそこであり、大した準備などされたとは到底考えられない。
翌々日の11日、藤白坂(和歌山県海南市)で絞首刑に処せられた。19歳であった。海南市の藤白神社境内には、有間皇子を偲んで有間皇子神社(境内社)が創建されている。この時皇太子・中大兄皇子は32歳で、処刑された有間皇子は母方の従兄に当たる。
皇紀1320年=斉明6年(660年)、朝鮮半島で百済が新羅に滅ぼされる。
翌斉明7年1月6日、斉明天皇は百済の救済要請を容れ、救援軍を派兵すべく、瀬戸内海を筑紫へと西下される。
しかしその年7月24日、斉明天皇は筑紫の朝倉行宮(福岡県朝倉市)にて在位7年(6年半)、68歳で突然崩御される。在位中の崩御であり、半島への派兵準備の最中のことであった。
更新:12月10日 00:05