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第34代・舒明天皇への皇位継承

2019年08月20日 公開
2019年08月27日 更新

吉重丈夫


 

知っておきたい皇位継承の歴史

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は舒明天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

皇位継承事典
 

第34代・舒明天皇
世系29、即位37歳、在位13年、宝算49歳

皇紀1253年=推古元年(593年)、押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ、敏達天皇の第一皇子で、母は最初の皇后・広姫)の王子として誕生された田村王で、母は糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ、敏達天皇の皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)である。従って田村王(舒明天皇)の両親はともに敏達天皇の皇子、皇女であり異母兄妹の関係である。

先代の推古天皇は推古36年3月7日、継嗣を定めずに崩御された。ただし、天皇は崩御の前日3月6日、有力な皇位継承候補となる押坂彦人大兄皇子の王子・田村王(後の舒明天皇)と、聖徳太子の王子・山背大兄王の二人を病床に呼び寄せられ、田村王に対しては「慎み深く言動に気をつけよ」と諭され、また山背大兄王に対しては「あなたはまだ若く未熟なので群臣の意見を聴きなさい」と遺言された(詔一三〇詔「田村皇子、山背大兄王を諭し給ふの勅」、一三一詔「山背大兄王に賜りし詔」)。

この時は2年前の推古34年に蘇我馬子が死去しており、馬子の子の蘇我蝦夷が大臣となって朝政を執っていた。蝦夷が皇位継承について群臣と協議したところ、田村王を推すものと山背大兄王を立てるものに分かれた。蝦夷は山背大兄王とは対立していたこともあり、田村王を立てることを画策する。

まず叔父の境部摩理勢が山背大兄王を推しているから都合が悪いということで、これを殺害する。

境部摩理勢は蘇我馬子の弟(蝦夷の叔父)で、蘇我一族の中では発言権もあり、中心人物の一人であった。従ってこの事件は皇位継承問題に極めて大きな影響を与えた。

蝦夷と蘇我一族は、田村王と法提郎女(ほていのいらつめ 馬子の娘)の王子・古人大兄皇子(馬子の外孫)を即位させるという意図を持っていた。

皇紀1289年=舒明元年(629年)1月4日、敏達天皇の孫・田村王が舒明天皇として37歳で即位される。政治の実権は蘇我馬子の亡き後、馬子の子である大臣・蘇我蝦夷が握っていた。

皇紀1290年=舒明2年(630年)1月12日、天皇は宝女王(次の皇極天皇・斉明天皇)を皇后に立てられる。宝女王は敏達天皇の第一皇子・押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王の娘で、舒明天皇の姪に当たり、後に天智・天武両天皇、間人皇女(孝徳天皇の皇后)の生母となられる。

舒明2年10月12日、大和国飛鳥岡の岡本宮に遷都される。

皇紀1301年=舒明13年(641年)10月9日、天皇は在位13年(12年9ヶ月)、宝算49歳で崩御された。

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