2019年09月18日 公開
2019年09月18日 更新
近江神宮(滋賀県大津市)
天智天皇が近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、1940年(昭和15年)、同天皇を祭神として創祀された。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1286年=推古34年(626年)、舒明天皇の第二皇子として誕生された中大兄皇子で、母は皇極天皇=斉明天皇である。
皇紀1305年=大化元年=皇極4年(645年)6月14日、孝徳天皇の皇太子として立太子(19歳)される。
舒明天皇には第一皇子(中大兄皇子の異母兄)として古人大兄皇子がおられたが、第二皇子の中大兄皇子が立太子された。古人大兄皇子の母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほていのういらつめ)である。
この年9月12日、古人大兄皇子は謀反を起こし中大兄皇子に攻め滅ぼされる。異母弟の中大兄が自分を差し置いて立太子したことに不満を持たれての謀反であったのかどうかは定かではない。中大兄皇子が立太子されてから3ヶ月後のことであるからその可能性は高い。いずれにしても、中大兄の立太子の直後に起きた事件であった。
皇紀1321年=斉明7年(661年)7月24日、筑紫の朝倉宮で皇太子・中大兄皇子と半島への派遣軍の指揮を執っておられた斉明天皇が突如崩御される。
翌年の皇紀1322年= 称制元年(662年)、中大兄皇子は、先帝・斉明天皇崩御で、即位せずに政務を執る、いわゆる「称制」を開始され、称制元年となる。
朝鮮半島で新羅とは交戦状態にあり、斉明天皇は崩御されたが、皇太子・中大兄皇子は天皇として正式に即位しないで、天皇としての政務を執るいわゆる「称制」という立場をとられたのである。皇統譜には称制元年とある。
皇紀1323年=称制2年(663年)7月20日、百済救援に派遣した朝廷軍が白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れる。
皇紀1327年=称制6年(667年)3月19日、近江国滋賀大津宮(現在の大津市)へ遷都される。半島で朝廷軍が敗北し、国土防衛のために都を近江へ移された。
皇紀1328年=天智7年(668年)1月3日、先帝の斉明天皇が崩御されてから、皇太子・中大兄皇子は長い間皇位に就かれず皇太子のまま称制されたが、ようやくここで正式に即位される。称制で内部的にはすでに即位しておられた。
大海人皇子を皇太弟とされた。
2月23日、23年前に謀反事件を起こして中大兄皇子に滅ぼされた異母兄・古人大兄の娘で姪の倭姫王を立てて皇后とされた。
また蘇我倉山田石川麻呂大臣の娘・遠智娘(おちのいらつめ)、遠智娘の妹・姪娘(めいのいらつめ)、阿倍倉梯麻呂の娘・橘娘(たちばなのいらつめ)、蘇我赤兄の娘・常陸娘(ひたちのいらつめ)の4人を妃とされた。
皇后・倭姫王には皇子女はなかったが、遠智娘は建皇子(たけるのみこ)、大田皇女、鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ、後の天武天皇の皇后・持統天皇)の一男二女をもうけられ、姪娘は御名部皇女(みなべのひめみこ)、阿閇皇女(あへのひめみこ、後の元明天皇)をもうけられた。橘娘は飛鳥皇女、新田部皇女を、常陸娘は山辺皇女を産まれた。
また後宮の女官、忍海造小竜(おしぬめのみやつこおたつ)の娘・色夫古娘(しこぶこのいらつめ)が大江皇女、川島皇子、泉皇女をもうけられた。女官で栗隈首徳万の娘・黒媛娘が水主皇女(みぬしのひめみこ)を産んだ。また越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)が施基皇子(しきのみこ、志貴皇子)を、また女官の伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)がのちの大友皇子(弘文天皇)を産まれた。
皇紀1329年=天智8年(669年)冬10月10日、天皇は病に倒れた中臣鎌足を見舞われた。15日、皇太弟の大海人皇子を勅使として中臣鎌足内大臣の邸に遣わされ、大織(だいしょく)の冠と大臣の位を授けられた。そして特別に「藤原」なる姓を賜った。ここで中臣鎌足が藤原鎌足となる。
藤原鎌足が「藤原氏」、「藤原家」の祖となり、この藤原家が以後歴代天皇の皇后、中宮や妃を出し、外孫の天皇も多く誕生する。そして以後、藤原家の者が太政大臣以下の朝廷高官の地位に就き、国司などの地方の行政官も多く輩出する。日本の歴史上長きにわたって、良きにつけ悪しきにつけ、天皇の側近としての役割を果たしていくことになった。
10月16日、藤原内大臣(中臣鎌足)が死去する。56歳であった。藤原鎌足として知られるが、中臣鎌足が「藤原」なる姓を名乗ったのは死去直前の1週間だけであった。
皇紀1331年=天智10年(671年)1月5日、天皇は第一皇子・大友皇子(弘文天皇)を史上初の太政大臣に任じられた。そして蘇我赤兄臣を左大臣に、中臣金連を右大臣に任命された。
この年天智10年10月17日、天皇のご不例が重篤となり、弟の大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとされた。しかし、大海人皇子はここで逆に皇太弟を辞され、出家を願い出られた。天皇が大友皇子を太政大臣に任じられたことで、皇子を後嗣とされることが天皇のご意思であると悟られたからであった。
天皇はこれを許され、代わって大友皇子を皇太子とされた。大海人皇子は落飾して、妃の鸕野讚良(天智天皇の皇女)を伴い吉野に下向される。
皇紀1331年=天智10年(671年)12月3日、天皇は称制期間を含め10年の在位にして46歳で崩御された。
更新:11月23日 00:05