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天下分け目の天王山!山崎合戦~五十五年夢、明智光秀の最期

2019年10月07日 公開
2022年06月22日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

明智藪
 

小栗栖で殺される

光秀が、勝龍寺城を脱出したあと、つぎにどのような手を考えていたのかはよくわからない。ただ、このとき、勝龍寺城を出て、下鳥羽に至り、さらに大亀谷を経て山科の小栗栖に至っているので、近江方面をめざしていたことが考えられる。

光秀の居城の一つが近江坂本城なので、そこに籠って一戦を考えたのか、あるいは、信長の居城だった安土城に籠って秀吉に最後の抵抗をしようとしたのか、そのいずれかであろう。

負け軍のときはいつでもそうであるが、このときも軍勢が減るのは早かった。この光秀の場合は、目立つと秀吉軍の探索の手にかかると心配して、わざわざ小人数に分かれて勝龍寺城を脱出したため、特に少なかったと考えられるわけであるが、そうした事情を考慮に入れたとしても少なすぎた。

小栗栖の竹藪を通過中、落武者狩りをしていた農民のくり出した竹槍で光秀が殺されたとき、側には、近臣の溝尾庄兵衛ら5、6人しかいなかったといわれている。

負け軍になったことで、早々に光秀を見限り、逃げ出してしまった将兵がそれだけ多かったことを物語ると同時に、この時期、光秀の居城が近江坂本城と丹波亀山城と二つあったことも、結果論ではあるが、光秀には不幸なことであった。

居城が一つであれば、当然、自己の居城に籠って最後の戦いなり、再起をはかる戦いなりになる。本能寺の変のときには、亀山城から出陣しており、そのあと、光秀自身、安土城に入ったり、坂本城に入ったりしているので、全軍の意思統一がなされていなかった可能性がある。結局、光秀は、小栗栖で、農民のくり出す槍によって殺されてしまったのである。
 

その後の明智一族

光秀の首は、介錯をした溝尾庄兵衛によってその付近に埋められたが、すぐに農民にさがし出されてしまい、掘りおこされて秀吉のもとに届けられた。秀吉は早速、光秀の首を取ったことを諸方に知らせるとともに、それを本能寺の焼け跡にさらしている。信長に、仇討ちを果たしたことを報告する秀吉の計算されたパフォーマンスである。

翌14日にはまず亀山城が落とされ、15日には坂本城も攻められている。城を守っていたのは明智秀満で、よく抵抗したが、「これ以上の防戦は無理」と判断し、城中にあった財宝すべてを秀吉方に渡した上で、自刃して果てた。このとき、秀満は、光秀の妻子、および自分の妻(光秀の娘)を刺殺した上で自刃におよんでいるので、ここで、明智一族は滅亡した形になる。

光秀が、細川忠興とともに、「国政を譲りたい」といった十五郎という男子もそこで死んでいる。なお、十五郎については病死説もある。

光秀の死にかかわって、もう一つ付け加えておかなければならないことがある。光秀生存伝説、すなわち光秀不死説である。人口に膾炙しているものとしては、「光秀はそののち天海になった」とする、光秀・天海同一人説である。しかし、これは話としてはおもしろいが史実ではない。

また、このように有名なものではないが、地方に落ちのび、長いこと潜伏していたというものもある。たとえば、岐阜県山県郡美山町中洞に伝わる伝説では、小栗栖で殺された光秀は光秀の影武者で、光秀本人は美濃の中洞に落ちのび、そこで荒深小五郎と改名して関ヶ原の戦いのころまで生きのび、子孫も残したという。

こうした有名武将の落人伝説的な不死説は、そのままに信用することはできないが、その後の人びとの光秀に対する追慕の心理をうかがう上では全く無視することはできないのではなかろうか。

少しケースはちがうが、何らかの形で明智氏の流れ、あるいは光秀の後裔であることを伝えている家もある。たとえば、幕末のあの坂本龍馬も明智の一門だという。

平尾道雄氏の『坂本龍馬海援隊始末記』に、

……龍馬の苗字「坂本」は、その祖先が近江国(滋賀県)坂本村に起こったのにちなみ、明智氏の一門だということから紋所は桔梗をもちいている(中略)。伝えによると、明智左馬之助光春の妾腹の子―太郎五郎という者が、近江国坂本落城の後、土佐へのがれ長岡郡才谷村に大浜氏を頼り、ここに二代彦三郎、三代太郎左衛門までが農業をいとなんでいた。

とみえる。ここにみえる明智左馬之助光春という名は、のちの『太閤記』や『明智軍記』にみえる名で、確かな史料には明智秀満と出てくる人物であるが、坂本家では、先祖のルーツを明智氏と考えていたことがわかる。確かに坂本龍馬の家紋は「組合せ角に桔梗紋」である。

もっとも、紋の桔梗と、苗字の坂本から、坂本城主明智氏、桔梗紋が結びつけられた可能性があり、このこと自体が史実であったかどうかとなると問題はある。しかし、私がここでいいたいのは、江戸時代、あれだけ「逆賊」のレッテルを貼られた形の明智光秀を、自分の家系にとりこもうとする意識が人びとの中にあったという点である。

光秀も、庶民レベルでは好印象をもって迎えられていたのではなかろうか。

※本稿は、小和田哲男著『明智光秀』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。

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