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明智光秀は「左遷」を意識した?~ライバル・秀吉への援軍指令と出雲・石見への国替え

2019年09月27日 公開
2022年06月22日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

明智光秀

本能寺の変の直前、家康の饗応役をはずれ、ライバル・秀吉への援軍を命じられた明智光秀。このとき、信長は、丹波・近江志賀郡の領地を召し上げ、まだ敵国である出雲・石見を与えると通告する。信長を深く怨んだ光秀は、ついに謀反を決意する……。

本能寺の変につながる動機「怨恨説」の根拠として、小説やドラマでもおなじみのシーンだが、この話はほんとうなのか。また、光秀の心中はどのようなものであったのか。

※本稿は小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。

 

秀吉の応援か、毛利の後方攪乱か

天正10年(1582)5月15日、光秀による家康・梅雪の接待・饗応がはじまったその日、秀吉から信長に急報が届けられた。

秀吉はこの年4月14日に、備前岡山城の宇喜多秀家とともに備中に入り、宮路山城・冠山城などを落とし、清水宗治の守る備中高松城にせまり、4月27日から高松城を囲み、近くの足守川の水を堰とめ5月8日からは有名な水攻めの態勢に入っていた。事態の思わぬ展開にびっくりした毛利輝元は、叔父にあたる吉川元春・小早川隆景に兵をつけ、備中高松城の清水宗治救援に向かわせたのである。

毛利軍本隊が後詰に出てきたとなると、このころの秀吉軍はわずか2万ちょっとの兵なので、勝ち目はない。そこで、信長本人の出馬を要請してきたというわけである。

秀吉からの急報をうけた信長は、「これは天の与えるところである。自ら出馬し、中国の歴々を討ち果たし、九州まで片づけてやろう」といって、光秀・細川忠興らを先陣として派遣することを決めている。『信長公記』に、「維(惟)任日向守……先陣として出勢すべきの旨仰出だされ、則、御暇下さる。五月十七日、維(惟)任日向守、安土より坂本に至つて帰城仕り、何れも何れも同事に本国へ罷帰り候て、御陣用意なり」とみえる。

この『信長公記』の記事だけだと、このとき、出陣を命じられた光秀らは、信長本隊の先陣として、備中高松城を水攻めにしている秀吉の応援に行くことが目的だったことになる。

ところが、『川角太閤記』はややちがった解釈をしている。そのときの信長の命令として、「日向事、但馬より因幡え入り、彼の国より毛利輝元分国伯州・雲州へ成る程乱入すべきものなり」とあったというのである。つまり、このとき光秀に命じられたのが、単に秀吉の応援に行くことだったのか、毛利本隊が備中に集中している隙に、毛利領国の伯耆・出雲をねらうものだったのかという点である。

私は、この点に関していえば、『川角太閤記』の解釈があたっているのではないかと考えている。すなわち、毛利氏の後方攪乱である。そして、このことに関連して、『明智軍記』に興味深いエピソードが載っている。

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