山田勝監修 『武器で読み解く日本史 』(PHP文庫)では、古代の弓・矛・剣から、近代の戦車・戦闘機まで、日本史に登場する武器・兵器が、いつどのように生まれ、時代にどのような影響を及ぼしたかを解説しています。本稿では、その一部を抜粋編集し、「武器」という視点から日本史を見直します。
今回は、武士の台頭とともに登場し、南北朝時代までの小規模の集団戦で使われた武器「薙刀」を紹介します。
戦場での薙刀は、斬る、突く、薙ぐ、払い上げる、石突で打つなど多彩な攻撃方法があって重宝されたと考えられる。石突とは、棒状の武器における地面に突き立てる部位の呼称だ。
多様な使い方ができることから、薙刀は剣、槍、棒を兼ねた武器ともいわれる。上下左右どこからでも攻撃することができ、握る場所を変えることで長短を変化させることもできるなど、その自在性は戦場できわめて有利に働いたと考えられている。
薙刀の使い手としては、源義経の従者である武蔵坊弁慶を思い浮かべる人も多いかもしれない。軍記物の『義経記 』によれば、1189年、源頼朝 の圧力に屈した藤原泰衡が多数の兵で義経のいる衣川館を襲った際、弁慶は義経を守って建物の入口に立ちはだかり、薙刀を振るって戦ったという。
だが、衆寡敵せず、敵陣から放たれた無数の矢を全身に受け、立ったまま絶命。その勇猛かつ凄惨な死に方は、「弁慶の立ち往生」と呼ばれて語り草となった。『義経記』は作者不詳であり、創作の部分も多いとされる。つまり、弁慶が薙刀を振るって奮戦したというのは史実かどうかはわからない。
鎌倉時代に成立した史書の『吾妻鏡』においては、武蔵坊弁慶は義経の従者のひとりとして名前があるだけで、来歴やその最期については、まったく触れられていない。これは、同時代の軍記物『平家物語』でも同様である。
もっとも、都落ちした義経を比叡山の僧兵たちが庇護したというのは史実であるらしい。そして、僧兵たちは薙刀で武装していた。鎌倉時代の絵巻物である『天狗草紙 』には、僧兵たちが「白五条( 袈裟の一種)を頭に巻き、僧衣に高足駄の男が薙刀を持つ」と記されている。現代のわれわれが想像する「僧形の弁慶が薙刀を持っている姿」と変わりない。
薙刀の使い手としてよく知られる弁慶と同時代の人に、巴御前がいる。巴御前は、1180年に後白河天皇の第三皇子・以仁王が発した平氏打倒の令旨に応じた源(木曽) 義仲の妾だ。
巴御前は、戦場でみずから武器をとって戦った女武者とされている。後世の絵では、彼女は薙刀を持った凛々しい姿で描かれることが多い。
ただし、巴御前も武蔵坊弁慶と同じように、その実在性があいまいな人物である。『平家物語』と『源平盛衰記』には登場するものの、これらは両方とも物語性が強く史実とは言い難い。このほかの文献には、名前がいっさい出てこないのだ。現在は、語り継がれている内容には脚色が多く、義仲の妾ではあったかもしれないが、女武者ではなかったとされている。
とはいえ初期の武家社会では、女性も戦場で戦い、男性と同じように財産分与がなされるなど、かなりの部分で男女平等であった。戦場で薙刀を振るう女武者も間違いなくいたことだろう。
ちなみに、刃の反りが大きい薙刀を「巴形」、小さいものを「静形」という。巴形の名は巴御前から来ており、静形は源義経の妾であった静御前から来ている。ただ、この名称で分類されるようになったのは、明治時代以降のことだ。静御前も実在したかどうかは不明で、薙刀を使ったという記録はない。