細川忠興・玉夫妻の像
(京都府長岡京市、勝竜寺城公園)
山田勝監修 『武器で読み解く日本史 』(PHP文庫)では、古代の弓・矛・剣から、近代の戦車・戦闘機まで、日本史に登場する武器・兵器が、いつどのように生まれ、時代にどのような影響を及ぼしたかを解説しています。本稿では、その一部を抜粋編集し、「武器」という視点から日本史を見直します。
今回は、細川忠興の愛刀「歌仙兼定」にまつわる逸話を紹介します。
戦国時代の武将が愛用した刀には、多くの物語が宿っている。彼らの愛刀の多くは、名のある刀工が作った名刀だ。
信長、秀吉、家康と3人の天下人に仕え、豊前小倉藩(現在の北九州市)の初代藩主となった細川忠興は、茶人としても知られるが、多くの戦で手柄を立てた武将だ。関ケ原の戦いでは東軍について石田三成の本隊と戦った細川隊は、136もの首級(討ち取った敵の首)を挙げたという。
忠興の愛刀は、関鍛冶の兼定作「歌仙兼定」だ。歌仙とはじつに洒落た名前だが、命名の理由として血生臭い逸話が残っている。
忠興は三男の忠利に小倉藩主の座を譲った後、自身は八代城に移って隠居した。ところが、忠興は短気な性格だったらしく、忠利の家臣の無能さに腹を立て、この刀で36人の家臣の首をはねたというのだ。
36人を殺めたこの刀は、和歌の名人の総称「三十六歌仙」にちなんで歌仙兼定と呼ばれた。粋なのか冷血なのか判断に苦しむところだ。なお、刀は現存しており、細川家第16代当主・細川護立が設立した美術館「永青文庫」(東京都文京区)に所蔵されている。
この忠興を高く評価していた信長にも、愛刀にまつわる伝説がある。
信長はあるとき、茶坊主を成敗しようとした。茶坊主が台所へ逃げて膳棚の下に隠れたので、信長は山城の刀工・長谷部国重作の刀で棚ごと茶坊主を斬殺した。じつにみごとな切れ味だ。そのことにちなんで、この愛刀は「へし切り長谷部」と呼ばれた。「へし切り」とは、刀身を押しつけて圧力で斬ることで、当時は「圧し切り」と書いた。
へし切り長谷部は、信長から秀吉を経て黒田官兵衛の手に渡った。以降、黒田家が家宝として長く所有した。その後、国宝に指定され、1978年に福岡市へ寄贈された。現在は福岡市博物館が所蔵している。