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ロシアとはいかなる国なのか~民族、地政学、社会文化から読み解いてみる

2019年08月23日 公開
2019年08月23日 更新

宇山卓栄(著述家)

無念に散った祖父たち

19世紀前半、ロシアは海軍を整備し、植民地獲得に乗り出す。

ロシア海軍が本拠としていたバルト海沿岸のペテルブルク港は、冬に凍結してしまう。そこで、ロシアは不凍港を求め、クリミア半島のセヴァストポリに基地を建設し、黒海艦隊を編成した。

黒海艦隊の進出ルートは黒海→地中海→大西洋→インド方面となるが、このとき、ロシアはオスマン帝国領のボスフォラス・ダーダネルス海峡を、必ず通らなければならなかった。ロシアはオスマン帝国に「海峡開放」を要求する。

ロシアは、イギリスが支配していたインドなどのアジア諸国の植民地征服を狙っていた。こうした動きを警戒したイギリスは、ロシア艦隊を黒海に閉じ込めておくため、オスマン帝国に「海峡閉鎖」を要求する(次頁の図参照)。

海峡の通行権を巡り、イギリスとロシアとの間で紛争が半世紀間、続いた。この一連の紛争は東方問題と呼ばれる。

東方問題はイギリスとロシアの対立を軸としながら、他のヨーロッパ列強やオスマン帝国の周辺地域・国々を巻き込んで、複雑化していく。1853年のクリミア戦争や、1877年のロシア・トルコ戦争がその最たるものだ。

しかし死闘むなしく、遂にロシアは黒海から地中海へ抜けるルートを確保することはできなかった。

代わりに、シベリア鉄道の建設を進め、陸路を東進し、太平洋へと進出する新しいルートを開拓することになる。

ロシアが太平洋に到達すると、日本との衝突は避けられない。イギリスはロシアを牽制するため、日本と連携、1902年に日英同盟を締結した。そして、1904年、日露戦争が勃発し、ロシアは敗退する。

こうして、ロシアの野望は挫折した。その屈辱は今もなお、ロシア人の記憶に深く刻まれている。彼らは、自らの歴史に蓄積された怨念から目を逸らすことはできず、決して妥協しない。妥協は無念に散った父祖たちへの裏切りに他ならない。

2008年のグルジアへの侵攻、2014年のウクライナへの侵攻とクリミア併合、シリアや中央アジアの旧ソ連邦地域への介入など、今日のロシアの拡張は、歴史への逆襲と言える。そんな彼らが北方領土をどう捉えているか、我々日本人は今こそ、よく現実を見るべきだ。
 

社会文化――「ロシア的」なるものの闇

貧困と後進の社会

19世紀ロシアの文学者プーシュキンの小説『エフゲニー・オネーギン』の主人公オネーギンは、田舎の美しい自然に憧れながらも、そこにいる粗野な人々や文化の低劣さに嫌気がさし、鬱屈とした生活を送る。農奴制などのロシアの後進性を憂う一方、貴族主義を改めることができない。

プーシュキンは、矛盾と分裂に苦悩する深層心理と移ろいを、絶妙な修辞法で表現している。貧困と後進の社会に生き、心に深い闇を抱えるオネーギンは、「ロシア的」精神そのものだ。

19世紀に入り、ヨーロッパ各国に産業革命の波が広がり、近代工業化が進むが、ロシアでは、そのような近代化がほとんど起こらなかった。ウクライナ地方を中心に肥沃な農耕地帯に恵まれたロシアでは、貴族などの保守的な地主層が大規模農場を経営し、ヨーロッパ各国へ主に小麦を輸出していた。安価で良質なロシアの小麦は、フランスの小麦よりも競争力が高かったのだ。

こうしたロシアの農業経済の成功が保守的な地主・貴族を潤し、強大な力を与え、ロシアの近代工業化を阻害する最大の要因になっていた。

地主・貴族は広大な農場を、農奴と呼ばれる小作人たちに耕作させていた。彼らは豊富な資金力で軍隊を擁し、人口の大多数を占める農奴らを、実力により管理支配していた。

農奴らは生かさず殺さず、酷使され、反乱に繫がるような不穏な動きが少しでもあると、見せしめに処刑された。

ロシアではこうした封建的な社会風土が、19世紀になっても根強く残っていた。
 

虚無と諦念が強権支配を生む

1870年代、インテリゲンツィア(知識人)のナロードニキ(人民主義者)たちは、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」という標語を掲げ、ロシアの古い封建体質を打破するべく、虐げられていた農奴や人民に政治的闘争を呼びかけた。

しかし、知識人の説得は、政治的意識を持たない農奴らには通じなかった。地主・貴族などの既得権益層が彼らを弾圧し、ナロードニキ運動は失敗に終わった。

ロシア社会には今日でも、「政治は一部の特権者のもの」とする封建的慣習があり、そのため、市民は自分たちが主体的に政治参加するのではなく、強い指導者が自分たちを導いてくれることを望んでいる。

政治に対する虚無と諦念、ロシア社会は「ヴ・ナロード」を唱えた者たちの悲劇の歴史に押し潰されたまま、本質的に何も変わっていない。

1890年代に入ると、ロシアでもようやく本格的な工業化がはじまる。外国資本や技術を積極的に受け入れて、都市工場の建設ラッシュが起こり、工業生産高が飛躍的に拡大した。

しかし、この成長も一部の資本家階級だけが富を得て、労働者は貧困に取り残されたままであり、格差拡大などの社会的な歪みを増幅させた。

20世紀に入り、遂に、労働者の不満が爆発し、ロシア革命となる。しかし、それはツァーリズム(皇帝専制主義)に代わる、共産党独裁という新たな恐怖政治を生み出しただけであった。

鬱屈は否定と破壊へと結び付く。そして、その残骸に残るものはいつも、強権支配なのである。

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