2019年01月31日 公開
桂太郎
安倍晋三首相が自民党総裁三選を果たし、通算首相在職日数記録を更新する可能性が高まった。では、世界史を見渡すと長期政権はいったいどんな足跡を残してきたのだろうか。
イギリス、アメリカ、そして日本……。
それぞれの国の事例で紐解いていこう。今回は日本の桂太郎政権を紹介する。
日本の憲政史上、最長の政権は桂太郎政権である。通算首相在職日数が2886日となっている。
これに、佐藤栄作2798日、伊藤博文2720日が続く。安倍首相が2018年9月に自民党総裁三選を果たした。このまま、安倍政権が3年続けば、桂太郎の在職日数を抜くことになる。
桂政権は長期政権の強みを存分に活かし、日英同盟を結び、日露戦争に勝利し、日本の近代化を完成させた。
桂の特色は、長州閥の首領であったものの、中産階級にも配慮し、巧みにバランスを取りながら、政権を運営したことにある。
桂が首相になる前の1895年、日本は日清戦争の勝利により、多額の賠償金を清国から得て、殖産興業が進んだ。経済が発展し、広く国民一般の中産階級が成長しはじめた。日清戦争を契機に台頭した中産階級は、ヨーロッパでいうブルジョワ市民階級に匹敵するものと言える。
こうした状況を踏まえ、伊藤博文は1900年、民党の立憲政友会を旗揚げして組閣。藩閥政府の独裁体制を崩し、国民の政治参加を可能にした。
これは、「第二の維新」とも言うべき、革新的な出来事だった。以後、政府は議会・民党と協調し、中産階級の協力により、広く国民経済に資する産業政策、金融制度、税制体系などが整備されていく。
中産市民階級の党である立憲政友会には、伊藤博文の他に、公家出身の西園寺公望が加わる。西園寺は伊藤の後を継ぎ、政友会の総裁になる。
一方、桂太郎ら薩長藩閥政治家は、官僚や軍に強い影響力を持ち、統率のとれた近代国家機構の担い手となる。
そして桂は、初めて組閣した1901年以降、桂と西園寺が首相として、交互に政権を担当し、官僚や軍と中産市民階級の利害を調整しながら、安定した政権運営を行なう。時に激しく争いながらも、十年以上続いた両者の協力体制は「桂園体制」と呼ばれる。
桂はこの「桂園体制」を、日本の円滑な近代化に必要不可欠な枠組みと捉え、西園寺ら政友会勢力との協調を重視した。
桂は背の低い丸顔で、人なつこい男だった。いつも、知り合いに、ニコニコ顔で肩をポンと叩き、「やあ」と挨拶するので「ニコポン宰相」と呼ばれていた。彼の愛嬌が、こうした協調関係を築いていく上で一役買っていた。
桂らの薩長藩閥は官僚や軍などの支配機構を構成する特権者であったが、新たに台頭する市民階級への配慮を怠らなかった。
だからこそ、国民の支持を得て、長期政権を維持することができたのだろう。ただ、長期政権はやはり反発を生みやすいのか、1912年に成立した第三次桂内閣は、「藩閥政治の横暴」と非難され、僅か2カ月で総辞職するに至る。
しかし、桂政権全体としては、日露戦争を勝ち抜き、なおかつ日本の近代化を推進するという歴史的偉業を遂げることができたと言えよう。
※本稿は、歴史街道2019年1月号掲載、宇山卓栄「世界史で読み解く「長期政権の功罪」 より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月23日 00:05