2019年01月16日 公開
2019年01月21日 更新
安倍晋三首相が自民党総裁三選を果たし、通算首相在職日数記録を更新する可能性が高まった。では、世界史を見渡すと長期政権はいったいどんな足跡を残してきたのだろうか。
イギリス、アメリカ、そして日本……。それぞれの国の事例で紐解いていく。今回はイギリスのロバート・ウォルポール政権について紹介する。
「流水濁らず」という。水は流れなければ腐る。しかし、清らかな流水がいつも良いとは限らない。「水清ければ魚棲まず」ともいう。
クリーンなだけで、中身がないのは困る。政権もまた、同じだ。長期政権は腐敗するが、その安定がなければ、歴史的偉業を成し遂げられない。
イギリスの首相ロバート・ウォルポールは21年間も政権を率いた。ウォルポール政権(1721〜1742年)の安定によって、イギリスは議会政治を定着させ、先進的な発展を遂げる。同時に、傲慢な金権政治に陥り、政権は腐敗した。
ウォルポールは中産の地主階級出身で、国会議員だった父の死後、地盤を引き継いで、わずか24歳で初当選する。若いウォルポールは野党ホイッグ党に所属し、与党トーリー党の重鎮たちに論戦を挑み、巧みな弁舌で一躍、国会の寵児となった。
ただし、彼は威勢の良い言葉で煽動するポピュリスト(大衆迎合主義者)ではない。緻密に論理を積み上げ、相手を説き伏せるタイプであった。むしろ、大衆の受けは悪かった。それでも、丸々と太った愛嬌のある顔が得をして、彼の智謀はイヤ味には映らなかった。
当時、保守派のトーリー党(貴族勢力)がホイッグ党(ブルジョワ中産階級)よりも優勢だった。ウォルポールは保守抵抗勢力と戦う若いリーダーを自ら演じ、新しい時代を担うブルジョワたちに強く支持された。ブルジョワの支持がウォルポール躍進の土台となったのだ。
そんなウォルポールが頭角を現わすきっかけとなったのが、南海泡沫事件である。
1720年、南海会社の株が暴落する。南海会社は事実上の政府公社で、情報操作により人工的に株価をつり上げられて、バブルとなっていた。
当時の政権首脳部たちはこの南海会社から裏献金を受け取るなど、ズブズブの関係にあった。政治家たちの献金疑惑が新聞で連日、報道され、激しい批判が巻き起こった。
一方、ウォルポールは南海会社設立に反対していた経緯があり、一連の騒動の収拾を託された。ウォルポールは南海会社に対する調査委員会を議会に設けるなどして、関係者を罰したが、うまく手心を加え、幕引きにした。
真実の追及をすれば、疑惑が政府中枢はもちろんのこと、王族にまで及ぶ可能性があった。国王ジョージ一世の愛人が南海会社との資金の受け渡しの窓口になっていた。
この騒動の処理が巧みであったことが、ウォルポールの政治手腕の評価を不動のものにした。1721年、ウォルポールはジョージ一世の信任を得て、44歳の若さで首相に就任する。
ウォルポールは議会を掌握・統制していた。その掌握の術はカネのバラまき、そして、議員の不正揉み消しによる懐柔であった。たとえば、ウォルポールは前述の南海会社に関し、議員たちの不正を把握していたが、敢えて触れなかった。
政府に「情報部(Secret Office)」という諜報機関を整備・拡充したウォルポールは、議員や重要人物の動きを逐一把握していた。彼の長期政権下において、この機関が反対派への脅しと懐柔の重要な役割を果たしていた。
ウォルポールの議会掌握によって、法案が矢継ぎ早に通り、改革が進んだ。政権の支持基盤であったブルジョワ階級のために、自由主義的な政策を次々と打ち出し、成果を上げた。
ウォルポールは人を見る目も確かで、人材を使いこなした。後に首相となるヘンリー・ぺラムなどもウォルポールが抜擢した人材だ。
他方、ウォルポールの長期政権はその弊害も顕在化する。ウォルポールは総選挙で、政府機密費を流用し、半ば公然と有権者を買収した。当時、選挙権を持つ有権者は一部の既得権益者に限られていたため、買収は容易であった。
しかし、こうした金権政治に対しても、ウォルポールに懐柔された議員らは口を閉ざした。『ロンドン・ジャーナル』紙などの新聞メディアも懐柔されており、政権への批判はほとんどなかった。それでも、政権批判をした新聞は政府の取り締まりの対象になり、廃刊に追い込まれた。
代わりに、作家や評論家が批判の声を上げた。ジョナサン・スウィフトやヘンリー・フィールディングらがウォルポールを揶揄したため、彼らの作品は発刊禁止となっている。まさに、ウォルポール政権は長期政権が抱える功罪の見本といえる。
※本稿は、歴史街道2019年1月号掲載、宇山卓栄「世界史で読み解く「長期政権の功罪」 より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月22日 00:05