2019年01月21日 公開
2019年01月21日 更新
安倍晋三首相が自民党総裁三選を果たし、通算首相在職日数記録を更新する可能性が高まった。では、世界史を見渡すと長期政権はいったいどんな足跡を残してきたのだろうか。
イギリス、アメリカ、そして日本……。
それぞれの国の事例で紐解いていこう。今回はフランクリン・ルーズヴェルト政権を紹介する。
アメリカ独立戦争の指導者ジョージ・ワシントンは大統領になるのを嫌がっていた。周囲が無理強いしたので、やむをえず初代大統領に就任した。
ワシントンは2期目も仕方なく引き受けたが、3期目を要請された時には、断固として拒否した。そのため、大統領職は2期までという慣習がつくられた。
この慣例を破ったのが、フランクリン・ルーズヴェルトである。第2次世界大戦中の危機対処を理由に、3選、さらに4選した。
ルーズヴェルトは1945年に病死するが、そうでなければ、5選6選ということもあり得ただろう。1951年、アメリカ合衆国憲法修正第22条によって、正式に大統領は2期までと定められた。
ルーズヴェルトは1933年から1945年の12年間、政権を率いたが、その後半期には、ほとんど常軌を逸した政策運営がなされていた。
在職中から、ルーズヴェルトを「共産主義の共感者」とする共通認識があったが、「共感者」どころか「共謀者」であったことが「ヴェノナ文書」の公開ではっきりした。アメリカ国家安全保障局(NSA)が1995年に公開した「ヴェノナ文書」は米英による当時のソ連暗号の解読の記録である。
ルーズヴェルトは、1933年の就任直後から実施したニューディール政策により、世界恐慌のどん底から、経済を立ち直らせたと国民から評価され、人気は高かった(今日ではニューディール政策の効果は疑問視されている)。政権の2期中の1939年、第2次世界大戦が勃発し、ルーズヴェルトはこれを奇貨として、長期政権への野望を抱いた。
1940年の大統領選挙で、ルーズヴェルトはワシントン以来の慣例を破り、3選を狙い出馬したため、民主党議員からも批判された。
しかし、ルーズヴェルトは「戦争には絶対に参加しない」と主張して、選挙戦を有利に戦った。共和党の対立候補ウィルキーは「ルーズヴェルトは戦争をしたがっている、国民を騙している」と批判した。実際、ウィルキーの言った通りになる。
ルーズヴェルトは3選を果たすと「日本の脅威」を執拗に喧伝し、危機を煽りはじめる。前例のない3選の大統領権力は絶大であり、半ば独裁権を固め、太平洋戦争へと突入していく。日本を滅ぼすというルーズヴェルトの個人的な野心はようやく実現しはじめる。
ルーズヴェルトは日本人に対する強い人種差別的思想を持っていたことを、イギリスのキャンベル駐アメリカ公使などが証言している。
戦争がはじまると、ルーズヴェルトは「大統領令9066号」に署名し、日系人を令状なしに捜査・連行することを可能にした。日系人の強制収容所を建設し、多くの日系人の財産を奪った上、連行し、過酷な労働に従事させた。
その一方で、テヘラン会談を開催するなどして、ルーズヴェルトはスターリンと協調する。
実は、ルーズヴェルト政権の中枢部は共産主義者によって占められていた。「ヴェノナ文書」によると、200人以上のスパイやその協力者たちが政府要職についていたのだ。彼らはソ連・コミンテルンと通謀し、日本敵視政策を主導し、アメリカの反日世論を煽った。
1944年の大統領選にも、ルーズヴェルトは当然の如く出馬して、4選を果たす。もはや、大統領に立ちはだかる者など誰もいなかった。
その暴走・暴虐の極めつけが、1945年2月のヤルタ会談である。日本の共同分割支配をスターリンと話し合い、ソ連の東欧諸国に対する支配権を認めた。政権の長期存続は為政者の企みを実現させる。
ヤルタ会談の2カ月後、ルーズヴェルトは脳卒中で急死。ルーズヴェルト政権がこれ以上長く続いていれば、日本は破滅していただろう。
※本稿は、歴史街道2019年1月号掲載、宇山卓栄「世界史で読み解く「長期政権の功罪」 より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月21日 00:05