山内容堂の建白による大政奉還ののち、王政復古の大号令で幕府の廃止が宣言された。さらに鳥羽・伏見で幕府軍と薩長を中心とする新政府軍が激突。新政府軍の勝利により、幕府軍は江戸へと敗走。それにより、「乾退助」、のちの板垣退助は、東山道先方総督府参謀を拝命して、戊辰戦争の先頭に立った。
後に戊辰戦争に勝利した明治政府は、版籍奉還と廃藩置県を断行するなど、中央集権化を進めていく。それにともない、士族の特権も失われていく。その反動により全国各地で不平士族の反乱がおきることとなる。
こうした不満を解消する手段として、西郷隆盛と板垣退助らは、日本との国交を拒否した朝鮮に出兵するという征韓論を唱える。しかし明治六年、内治優先を説く岩倉具視や大久保利通らに敗れ、征韓派は政府を去る。
その翌年、板垣と後藤象二郎は江藤新平・副島種臣らとともに民主的な選挙による政治を実現すべく「民撰議院設立建白」を左院に提出した。これが新聞に掲載されたことで、全国に自由民権運動が広がっていく。そして、土佐の中江兆民や植木枝盛らが活躍していく。
桂浜から高知城へ向かう道の途中にある「高知市立自由民権記念館」では、自由民権運動発祥の地である土佐の自由民権運動の歩みが、数多くの文書資料・文献・写真・風刺画などを使って紹介されており、当時の雰囲気を伝える「自由勝利」と書かれた大徳利をはじめ、板垣が暴漢に刺された際の凶器の短刀なども展示されている。自由を獲得するために血と汗を流した土佐の人々の生きざまを体感できる空間となっている。
高知市立自由民権記念館内の植木枝盛旧邸書斎
板垣が襲われた際の短刀
展示室には、「自由は土佐の山間より」というプレートが掲げられているが、その言葉の意味をまざまざと痛感させられた。
高知市立自由民権記念館の内観
今回訪ねた3館はいずれも高知市内にあり、高知を訪れる際には是非とも足を伸ばしたいものである。
更新:11月22日 00:05