そして、坂本龍馬記念館でなんといっても必ず足を運びたいのが、本館屋上の休憩コーナーである。東西に広がる太平洋を見下ろす眺望は、まさに圧巻の一言。
幸運にも訪れた日は雲ひとつない快晴であった。心地よい大海原からの海風を感じながら、150年前に新しい日本を夢見た龍馬の志に想いを馳せる――そのひとときは、土佐での歴史旅のクライマックスといえるだろう。
坂本龍馬記念館から海を望む
満足感に浸りながら坂本龍馬記念館の本館出口を抜けると、目に飛び込んできたものがあった。「浦戸城跡」という石碑である。そう、かつてこの地には、戦国末期に四国統一を果たした長宗我部の居城がそびえていたのである。
長宗我部はもともと、古代より土佐国の中心地であった長岡郡北部(現在の南国市)の岡豊山(おこうやま)にある岡豊城に本拠を構えていたが、その後、大高坂山城(現・高知城)を経て、海に面した浦戸を本城と定め、天守と石垣を持つ近代的な城郭をつくりあげた。
しかし、関ヶ原の合戦で西軍についた長宗我部は、領国一切を失うことに。代わって新領主となったのが、山内一豊である。
一豊の入国前に、浦戸城接収の任を受けたのは井伊直政であった。その際、「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる長宗我部氏の半農半兵の下級家臣が城の明け渡しに抗して籠城を試みたが、結局、鎮圧され273名の首級がさらされた(浦戸一揆)。
こうした新領主に対する不穏な気配を受け、のちに一豊は大高坂山(現・高知城)に新しく城を築くことを決断。このことがきっかけとなり、土佐には山内氏由来の家臣である上士と長宗我部氏由来の家臣である下士(郷士)の身分制度が生まれた。
ちなみに幕末期の土佐勤王党の構成は、郷士を中心とする下士が多数を占めていたという。当時、上士を中心とした吉田東洋の保守派と、下士を中心とした武市半平太の土佐勤王党が対立したことは有名である。
ともあれ、長宗我部氏が土佐を失ってから400年の時を経た今、浦戸城の本丸跡に下士の出である坂本龍馬の記念館が建つのは、歴史の不思議な巡り合わせというものである。
坂本龍馬記念館に建つシェイクハンド龍馬像
更新:11月22日 00:05