2018年04月03日 公開
2018年04月24日 更新
寛政7年(1795)、忠敬は江戸に出て天文方の高橋至時(よしとき/景保の父)に弟子入りし、本格的に天文学と暦学を学び始めます。
この頃、幕府は国防問題を強く意識するようになっていました。日本の周辺に、ロシアなどの外国の船が現われていたからです。
ところが、砲台をつくるにしても何にしても、まともな地図がなかった。そこで、全国をきちんと測量し、正確な地図を作る仕事が天文方に命じられ、至時はこれを忠敬に「下請け」させます。
父の実家の神保家も、伊能家も、名主を務める家であり、田畑の広さの調査、堤防などの建設のために、測量は必要不可欠な技術でした。だから、忠敬は測量して地図を作る経験を有していた。
しかも、算術の優れた才能があり、蘭学を取り入れた天文学や暦学の知識もある。
そんな忠敬を、高橋至時は高く評価していたのです。
寛政12年(1800)、55歳の忠敬は、蝦夷に向けて旅立ちました。以後、16年に及ぶ測量活動が続けられるのですが、それは決して平坦な道のりではありませんでした。
とりわけ初めの頃は、正規の幕府の役人ではなかったので、怪しまれることもありました。年貢を増徴する目的で、内密に検地に来ているのだろうと、疑いの目で見られることもありました。
そうした逆風に、彼は「誠意」を武器に対応しました。
同時に、相当の「接待費」も使ったことでしょう。それは、おそらく伊能家からの持ち出しだったと思われます。
また、各地元の地理研究者と侃々諤々の議論をしながら、彼らの成果をうまく使ってもいます。
例えば、坂出塩田を作ったことで名を残した、高松藩の久米栄左衛門(通賢)。彼は文化3年(1806)に高松藩の測量方に採用されて地図の作成に携わり、文化5年(1808)に四国にやって来た忠敬の測量隊に協力しました。
忠敬の測量が終わったのは文化13年(1816)のことです。
2年後の文化15年(1818)に忠敬は亡くなりましたが、高橋至時の後を継いだ子の景保の指揮の下、天文方で地図の製作が続けられ、文政4年(1821)に「大日本沿海輿地全図」が完成しました。
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伊能忠敬は「天と地を結びつけた男」だと、私は思っています。子供の時に抱いた星(天界)への関心が、人間の社会(人界)と結びついて、「大日本沿海輿地全図」に結実したからです。
もっとも、「星が好きだ」という「点」から「正確な日本地図の作成」という「点」につながるには、ある種の飛躍が必要です。それが可能になったのは、忠敬のもっていた科学精神のおかげだったかもしれません。
あるいは、子供の時から、「世のため、人のため、国のため」という志を常に失わなかったからかもしれません。
いずれにしても、忠敬には「飛躍する能力」があった。そこが凡人とは違うところです。
ただし、織田信長のように超人的な次元で能力を発揮したのではなく、生活の中の小さなことを大事にすることで、凡人には真似ができない偉業を成し遂げた人だと、私は捉えています。
《『歴史街道』2018年5月号より》
更新:11月22日 00:05