2017年07月10日 公開
2019年07月02日 更新
文政4年(1821)7月10日、伊能忠敬らが史上初の日本地図「大日本沿海輿地全図」を幕府に献上しました。
伊能忠敬が現在の千葉県山武郡から江戸に出たのは、寛政7年(1795)のこと。すでに50歳を迎えていました。忠敬は、天文学の第一人者、高橋至時(しげとき)の門下生となります。高橋は32歳であり、忠敬にとっては息子ほどの年齢の「若造」です。しかし、忠敬は気に留めずに弟子入りしました。 当時は儒教社会であり、「目上を敬う」ことは今よりも絶対的な価値観でした。忠敬は酒造業で一度は確たる成功を収めた男です。しかし、そんなプライドよりも、向学心が勝ったのでしょう。当初、至時は忠敬の入門を「よくある、年寄りの道楽」だと考えていたようです。しかし、飽くことなく猛勉強する忠敬の姿に心を打たれ、「推歩先生」(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになりました。
では、なぜ忠敬は天文学を学んでいながら、後に蝦夷地にまで足を運び、地図づくりに携わるようになったのでしょうか。当時、天文学を学ぶ人々の最大の関心ごとは、「地球の直径はどのくらいか、自分で調べてみたい」ということでした。地球が丸いということは知られていましたが、その大きさまでは分からなかったのです。
忠敬は考えます。
「2つの地点の距離が分かれば、両方の地点から北極星の高さを観測して、地球の外周を割り出すことができる。ただし、2つの地点は、なるべく遠くなければならない」。
こうして、忠敬は江戸から遥かに離れた蝦夷地へと憧れを抱いたというのです。
「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」
忠敬は幕府に手紙を送り、許可を得ます。そして55歳にして、日本各地の測量を開始し、地図作成にあたっていきます。
「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は、天下の暦学の盛衰に関わっているのです」
高橋至時は江戸から伊能に手紙を送り励ましました。2人の深い繋がりが窺えます。
しかし―― その後、忠敬は後世に残る活躍をする一方、至時は天文学書の翻訳などで無理を重ねたため、39歳の若さで亡くなります。忠敬は深く打ちのめされたものの、至時への恩義はひと時も忘れることはなく、すべての成功を至時のおかげであると述べています。また自身の死後は、至時のそばに葬ってほしいとの遺言も残しています。実際、上野源空寺には高橋至時と伊能忠敬の墓が寄り添うように建っています。
深い絆で結ばれた師弟がいればこそ、日本地図完成という偉業は達成されたといえるでしょう。
更新:11月22日 00:05