2017年05月25日 公開
2019年04月24日 更新
明治39年(1906)5月25日、角田喜久雄が生まれました。主に戦前戦後に活躍した作家で、探偵小説や伝奇小説と呼ばれる時代小説などを手掛けました。13巻に及ぶ全集が編まれるほど数多くの小説を執筆しましたが、そんな中で数少ないノンフィクションが『東京埋蔵金考』(1962年雄山閣、後に中公文庫)です。今回は本書にまつわる埋蔵金伝説について少し紹介してみましょう。
埋蔵金といえば、テレビでも大規模な発掘を行なった赤城山中の徳川埋蔵金をはじめ、武田信玄、豊臣秀吉、瀬戸内の水軍にまつわるものなど、全国津々浦々に伝説があります。しかし、実際に発掘された例はほとんどありません。もちろんだからといって存在しないとはいえませんが、大前提として「伝説」であることは認識しておく必要があります。
角田喜久雄の『東京埋蔵金考』では、タイトル通り、江戸東京に伝わる埋蔵金伝説が紹介されており、慶応4年(1868)4月11日、江戸開城の夜、浅草今戸橋場の銭座と蛎殻町の金座から運び出された在庫金銀17万5000両が三河島付近に埋められた話が中心です。
他にも彰義隊に関係する軍費1万両が根岸に埋められている話、湯島台の埋蔵金、筑戸八幡の埋宝、さらに赤城の幕府御納戸金伝説なども紹介されています。ノンフィクションとはいえ、現在のそれとは異なり、小説チックに書かれているので、読みやすい反面、信憑性は低く感じられてしまいます。もともと伝説ですから、目くじら立てる方が野暮かもしれませんが。 面白いのは、角田本人が小学校三年生の頃、かつて新門辰五郎の身内であったという人から、埋蔵金話を実際に聞いたというエピソードです。
それによると、上野の彰義隊に参加した、さる大旗本の次男が、戦いに敗れると、どさくさにまぎれて千両箱を持ち出し、従者の下男に背負わせて橋場のあたりにまで逃れてきた。しかし、官軍の追及が厳しいため、千両箱を運ぶのを断念し、川端に埋めた。その後、大旗本の次男は官軍に捕らわれてさらし首となり、下男はからくも逃げて行方をくらませた。
明治になり、話し手である新門辰五郎の身内の長屋の隣に、ひとり者の老人が転居してきた。身寄りはなく、子供相手の飴売りで生計を立て、あとは暇があれば釣りに出かけていた。その老人が病で寝こみ、新門の身内が親身に看病してやると、老人は息を引き取る前に、お礼代わりにと新門の身内に打ち明けたのが千両箱の一件だった。実はその老人こそ、千両箱を背負っていた大旗本の下男だった。
彼は釣りに出かけると装って、密かに自ら川端に埋めた千両箱を探していたのである。その場所は橋場の、さる大名家の塀に沿って流れる小川が、隅田川に流れ込む河口付近だった。しかし新門の身内が出かけてみると、川底にはヘドロが深く溜まり、その上に芦が密生していて、付近に埋められた千両箱を探すのは容易ではない。ただ、この場所なら千両箱がそのまま残っていても不思議ではないと身内は確信したという。
というのもこの河口付近は水流の関係で、水死体などが流れ着き、そのまま泥の中に沈んで白骨化するのも珍しくない場所であったからだ。そのため河口付近は成仏できない水死体の怨霊がうようよしているに違いないと、船頭たちも通るのを嫌がった。実際、飴売りの老人が最後に泥の中からつかみ出したのは、人間の頭蓋骨であったという。
そんな話を角田少年に聞かせ、いつか俺が千両箱を見つけ出すと語っていた新門の身内は、ついに探すことなく世を去りました。
角田は果たして話が本当なのかどうか疑いますが、実際現場を訪れ、河口に猫の死骸が流れ着いているのを見て、少なくとも水死体の話は本当だろうと感じたといいます。そして、こうした体験も肥しとなり、後の埋蔵金研究や、数多くの伝奇小説、探偵小説に結びついていったのでしょう。
今でも、人知れず埋蔵金を探している人は少なくないようです。しかし、それによって実利は決してあがらないのが現実でしょう。ただ、宝探しは誰もが胸ときめくものがあります。埋蔵金にも、埋める際のさまざまルールがあり、それらが場所を読み解く鍵になるのだとか。そうしたロマンの範囲内で、埋蔵金について想像し、語るのが、最も楽しめるものなのかもしれません。
更新:11月22日 00:05