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伊能忠敬~50歳で勉強をはじめ、56歳から日本地図をつくった凄すぎる偉人

2018年01月10日 公開
2018年12月25日 更新

1月11日 This Day in History

伊能忠敬
 

伊能忠敬が生まれる

今日は何の日 延享2年1月11日

延享2年1月11日(1745年2月11日)、伊能忠敬が生まれました。50歳で隠居してから全国をくまなく測量し、初めての実測による日本地図「大日本沿海與地全図」を作成したことで知られます。 

忠敬は延享2年、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町)に名主兼網元の小関五郎左衛門貞恒の3子に生まれました。幼名、三治郎。 ところが忠敬7歳の時に母が病死し、婿養子であった父は実家の神保家に戻りますが、3人の子供すべてを連れ帰ることができず、忠敬のみ小関家に残されました。忠敬が神保家に引き取られたのは、11歳の時です。神保家にいた頃のエピソードとして、家に幕府の役人が泊まった時、役人たちが算盤(そろばん)で計算するのを熱心に見ていた少年の忠敬に、計算方法を教えるとたちまち覚えてしまったというものがあります。数学の才能を認められた忠敬は、その後、常陸国の僧のもとで和算を学びました。

18歳の時に、佐原村(現在の千葉県佐原市)でも一、二を争う商家の伊能家に養子に迎えられます。新田開発や酒・醤油の醸造業を営み、幕府御用達も務める名家でした。婿入り後、すぐに村の名主後見役となり、それらしく名前も源六と改めます。 忠敬は商売の才覚もあり、江戸に次々と支店を作り、特に醸造業の販売拠点として酒問屋を設けて成功しました。また飢饉に対する備えを怠らず、多少の利益が出るとそれで米を買って備蓄します。 天明3年(1783)、39歳の時に大飢饉が襲った際には、備蓄米を惜しげもなく放出して近隣の人々を救いました。

この振る舞いは忠敬の名を一挙に高め、やがて幕府の知るところとなり、忠敬は後に褒賞を受けて苗字帯刀を許されます。忠敬は名実ともに地域の指導者として、伊能家の名を高からしめました。 もっとも忠敬は仕事一辺倒ではなく、伊能家に伝わる先代からの膨大な蔵書を、暇を見つけては読みふけって、4歳年上の妻から嫌味を言われたという話も伝わっています。

そして忠敬が50歳を迎えた寛政6年(1794)、息子の景敬が30歳となったので、家督を譲り隠居しました。そしてかねてよりやってみたかった数学を学ぼうと翌年、江戸へ出て、幕府天文方の高橋至時(よしとき、32歳)に師事して、暦学を学び始めます。当時、すでに数学の大家・関孝和が没して80年以上経っており、関が研究した円周率や円の面積、さらに微積分の概念は弟子たちに継承されて、和算が全国に広まり始めていました。忠敬が学ぶ暦学も、関孝和と同時代の渋川春海によって、800年来改良されていなかった暦が貞享暦に改められ、以後、幕府の政策として改暦が行なわれるようになっていたのです。

忠敬は寝食を忘れて太陽や月、星の運行を観測し、暦と照合しました。その姿に師の至時もあきれて、「推歩先生」と呼びます。推歩とは、観測するという意味でした。 当時、暦学の世界では緯度1度の距離が正確につかめておらず、「緯度を正確に測定できれば、疑いなく一流天文学者の誉れを得られる」といわれていました。忠敬はその測定に熱中し、それがやがて各地の測量につながっていきます。数年後、東北や中部地方で得た測量データをもとに、1度の距離を28.2里(110.75km)と測定、オランダ新暦法の数値とぴったり一致し、師の至時は忠敬の手をとって大喜びしたといいます。

寛政12年(1800)、忠敬は56歳にして第一次測量を開始します。たまたま師の至時が幕府より命じられた蝦夷地測量を忠敬が引き受けたもので、陸路を測量しながら蝦夷地に向かうことを幕府に許されました。ただし、費用は自腹です。以後、17年間で第10次に及ぶ測量を行ない(うち第9次は、老齢・体調不良で参加できず)、北は北海道の西別から南は屋久島・種子島までを、測量隊を組織して測り続けました。

当初は幕府も重く見ず、資金援助もありませんでしたが、第4次までの測量結果を「東日本沿海全図」として提出すると、その正確さに幕府が驚き、「十人扶持、小普請組、天文方勤務」という立場を与えられ、以後は「幕府御用」としての測量が可能になりました。 当時は南下政策をとるロシアの脅威があり、幕府は国防の必要性から、日本の正確な地図を求めていました。特に蝦夷地の地図は早急に必要であり、忠敬の測量はまさに渡りに船でもあったわけです。

忠敬は第10次測量をすべて終えた文政元年(1818)、江戸八丁堀の屋敷で没しました。享年74。生前からの希望で、忠敬はすでに他界していた師・至時の傍らに葬られます。その後、友人や門弟たちの協力で、「大日本沿海與地全図」「大日本沿海実測図」が文政4年(1821)に完成し、その時に初めて忠敬の喪が公表されました。 ちなみに文久元年(1861)、イギリス海軍が日本沿岸を測量しようとしたところ、これを阻止するために幕府が伊能の地図を見せると、イギリス海軍はその正確さに驚愕し、測量を断念したというエピソードも伝わっています。

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