2017年07月23日 公開
2023年04月17日 更新
天明7年7月23日(1787年9月4日)、二宮尊徳(たかのり/そんとく)が生まれました。江戸時代の農政家で、二宮金次郎の名で知られますが、正しくは金治郎だそうです。
天明7年、尊徳は相模国足柄上郡栢山(かやま)村(現、小田原市栢山)の農民・利右衛門の長男に生まれます。尊徳が5歳の時の寛政3年(1791)、酒匂川の堤が決壊し、利右衛門の田畑は流出してしまいました。さらに14歳の時に、父が他界。死ぬ間際、「桝の大きさが不揃いでは農民が困る。しっかり勉強して、桝を統一するよう役人に意見できるようになってほしい」と父は尊徳に遺言しました。
14歳で母と弟2人の一家を支える大黒柱となった尊徳は、朝は暗いうちから山で薪を集めて町に売りに出かけ、昼は田畑を耕し、夜は遅くまでワラジ作りに努めますが、生活は食うや食わずであったといいます。しかしそんな生活でも尊徳は、山から町への往復の間、歩きながら父が残した『大学』などの書物を読み、学問を身につけようとしました。
2年後、16歳の時に母が亡くなると、弟2人は母の実家に引き取られ、尊徳は伯父の家に寄宿します。寝る間も惜しんで読書する尊徳に、伯父が油の浪費だと文句を言うと、尊徳は荒地に菜種を蒔き、収穫した種を油と交換して勉強を続けました。昼間は伯父の家の農作業に励む傍ら、荒地の復興にも取り組み、20歳の頃には失われた実家の田畑にあたる分を取り戻すことに成功します。
二宮家を再興した尊徳は、地主経営を行ないつつ自らは小田原に出て、武家奉公人として小田原藩家老・服部氏に仕えました。当時、財政難に陥っていた服部家では生家を再興した尊徳の手腕に着目し、財政再建を託します。尊徳はこれに応え、およそ5年で見事に建て直し、藩内で一躍その名を知られることになりました。やがて藩主・大久保忠真も尊徳に注目し、文政5年(1822)、尊徳は大久保家の分家で旗本の宇津家の知行所・下野国桜町領の復興を命じられることになります。時に尊徳、36歳。それまで積み上げた田畑や家財をすべて売り払い、「一家を廃して万家を興すなり」という不退転の決意で、一家で桜町に移り住みました。
それからの尊徳は文字通り、粉骨砕身の努力で桜町復興に取り組みます。徹底的に村を廻って実情を把握し、治水を整備、荒地の開墾を奨励し、要領よく立ち回ろうとする者を評価せず、真面目に働く者を表彰して農民たちのやる気を高めます。ある夏の前に茄子を食べた尊徳が、秋茄子の味がすることから冷夏になることを予測、冷害に強い稗を植えさせていたことで、桜町領からは天保の大飢饉で餓死者が皆無だったこともありました。
とはいえ尊徳の復興事業に不満を抱く役人や一部の者も存在し、7年目の文政12年(1829)、事業が行き詰ったところで突如、尊徳は行方不明になります。これには農民たちが大いに慌て、手を尽くして探した結果、成田山で21日間の断食をしている尊徳が発見されました。農民たちの頼みで尊徳が桜町に帰ると、もう尊徳の事業に異を唱える者はいませんでした。それほど尊徳の存在が大きいことを、不在になって農民たちは初めて知ったのです。尊徳は見事に農民たちの心を一つにまとめ上げていました。
以後、桜町は順調に復興を遂げることになります。 こうした尊徳の復興手法は「桜町仕法」「報徳仕法」などと呼ばれることになり、その後も尊徳は真岡代官領や日光山領で仕法を実践しました。その一方で、父の遺言であった一升桝を改良し、藩内で統一規格化させて、役人が誤魔化して差額を横領することを撲滅しています。
安政3年(1856)、下野国今市で没。享年70。尊徳の仕法は以後も、多くの農村復興に活かされたといわれます。
更新:11月22日 00:05