2017年08月25日 公開
2023年04月17日 更新
中江藤樹墓所
(滋賀県高島市安曇川町、玉林寺)
慶安元年8月25日(1648年10月11日)、中江藤樹が没しました。江戸時代の陽明学者で「近江聖人」と呼ばれたことで知られます。
慶長13年(1608)、藤樹は近江国高島郡小川村の農家・中江吉次の長男に生まれました。通称は与右衛門。9歳の時、祖父・中江吉長の養子となりますが、吉長が伯耆国米子藩加藤家の150石取りの藩士であったため、親と別れて米子に赴きます。元和2年(1617)、加藤家は伊予大洲藩に転封となり、藤樹は祖父母とともに移住しました。元和8年(1622)に祖父・吉長が死去したため、15歳で家督を継ぎます。寛永元年(1624)には、京都から来た僧に『論語』を学んだことをきっかけに、『四書大全』を購入して熟読しました。「孝」の大切さに接したのは、この頃でしょうか。
18歳の時、父親の訃報に接すると、激しく慟哭して、自ら葬りたいと願ったといわれます。やがて朱子学と出会った藤樹は、行動の細則というべき「格套」を守ることで、武士らしくあろうと努め、学問にも励みました。しかし生来真面目であったためか、武士らしくあろうとする余り、自分に対しても他人に対しても厳しく頑なになり、やがて精神的に追い詰められていきます。25歳の時、近江で一人で暮らす母を案じて迎えに行きますが、母は大洲に行くことを断りました。かつて藤樹が子供の頃、母に慕い寄った息子に対し、いったん家を出た者が軽々しく帰るものではないと叱ったほど、躾に厳しい母親でした。悄然と四国への船に乗った藤樹は、船内で喘息の発作を起こして倒れます。藤樹の喘息は神経性のものであったようで、彼の心身は大洲での武士としての生活を拒んでいました。
その後、藤樹は藩に何度も致仕を願い出ますが認められず、寛永11年(1634)、27歳の時についに脱藩して、しばらく京都に潜伏した後、故郷の小川村に戻ります。ようやく心身が落ち着くと、藤樹は刀を売った金を元手に金貸しを始め、また酒屋を営みます。大洲時代の禁欲的な、四角四面の生活とは打って変わるものでした。やがて藤樹は私塾を開きました。これが「藤樹書院」です。同時に自ら医学を学び、村の学問の先生兼医者という存在になっていきます。
寛永14年(1637)に30歳で伊勢亀山藩士の娘と結婚、この頃から塾生も増えてきました。塾では儒学を教えましたが、特に『王陽明全集』に接して以降、藤樹は大洲時代に自分に課した形式主義的な朱子学ではなく、人間には本来良知が具わると説く、陽明学を重んじていきます。そんな藤樹に寛永19年(1642)頃に入門して師事したのが、備前池田家を致仕した熊沢蕃山でした。蕃山はその後、池田家に帰参し、藩主・池田光政より重用されることになります。
一方、藤樹は儒学だけでなく、望む者には医学も教えましたが、その中に大野了佐がいます。了佐は藤樹の友人の息子でしたが、やや知的障害がありました。しかし本人は医者になることを望んでおり、藤樹もそれならばと入門を許して漢文の医学書を読ませますが、冒頭の数フレーズを覚えるのに半日以上かかり、しかも食事を済ませるとすべて忘れている有様でした。藤樹も教えるのに精魂尽き果てる状態になりますが、けなげに毎日通ってくる了佐を見捨てることはできず、了佐のために平易なテキストを作り直して、根気よく教え続けて、ついに了佐を一人前の医者として独立させるのです。単に聖人の道を教えるのではなく、こうした弟子の育成に一緒になって全力を尽くす人間性を含めて、藤樹は「近江聖人」と呼ばれることになりました。
ところで、藤樹にはさまざまなエピソードが伝えられていますが、ひとつご紹介しましょう。
近江の河原市宿にいた馬子の又左衛門は、京都へ急ぐ飛脚を馬に乗せて隣の宿場まで運び、河原市まで戻って馬の鞍を外すと、財布のような袋があり、中に200両もの大金が入っていました。又左衛門は「これは先ほどの飛脚が忘れていったに違いない。今頃困っているだろう」と、夕暮れの道を隣の宿場に再び向かいます。又左衛門が飛脚の宿を探し当てると、案の定、飛脚は青い顔をして荷物の中を探し回っていました。又左衛門が飛脚に財布を渡し、しかも中身が無事であることを確認した飛脚は泣いて喜び、「これは加賀藩前田家の公金で、紛失したとなれば私の命だけでは済まないところでした」と礼を言い、命の恩人の又左衛門に謝礼を渡そうとしますが、又左衛門は受け取りません。飛脚もそれでは収まらぬと押し問答の末、結局、又左衛門は歩いてきた駄賃として200文だけ受け取り、それで酒を買ってきて、宿の人たちと楽しそうに飲み始めました。その振る舞いに感激した飛脚は、「あなたは一体どのような方ですか」と尋ねると、又左衛門は「私は名もないただの馬子です。ただ近くの小川村に中江藤樹先生という方がおられて、毎晩のように良い話をされるので、私も時々聞きに行くのです。先生は親孝行をすること、人の物を盗んだり、傷つけてはいけないこと、困っている人を助けることを話され、私はそれを思い出したのにすぎません」。
さいごに、藤樹が残した名言をいくつかご紹介します。
「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」
「それ学問は心の汚れを清め、身の行ないを良くするを以て本実とす」 「にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみ、おのれが名をたかくせんとのみ、高満の心をまなことし、孝行にも忠節にも心がけず、只ひたすら記誦詞章の芸ばかりをつとむる故に、おほくするほど心だて行儀あしくなれり」
「君子・小人の分、専ら心上にあり、意必固我(勝手気まま、強引、執着)なければ即君子なり。意必固我あれば即小人なり」
「悔は凶より吉に赴く道なり」
「家をおこすも子孫なり、家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁昌をもとむるは、あしなくて行くことをねがふにひとし」
慶安元年、中江藤樹没。享年41
本当の学問とは、本当の教育とは何かという点で、今に通じる部分があるように感じます。 学問とは決して、文言の暗記ではありません。また最後の言葉の家は、そのまま国に置き換えることもできるように感じます。若い世代に何を伝えていくのかも、年上の世代の責任なのかもしれません。
更新:11月22日 00:05