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伊能忠敬――世界最高レベルの地図は、いかにして作られたのか

2018年04月03日 公開
2018年04月24日 更新

童門冬二(作家)


伊能忠敬肖像画(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)

 

 日本全国を歩いて測量し、「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬。その精度の高さは、ヨーロッパ人を驚愕させた。しかも、その偉業は、忠敬が50歳を過ぎてから成し遂げたことであった――。

 

シーボルトが海外へ持ち出した

 文政11年(1828)、長崎のオランダ商館に勤める医師シーボルトへ、禁制の日本地図などを贈ったことが咎められ、幕府の天文方・高橋景保が逮捕されました。シーボルトのほうは、贈られた資料類を没収されて国外追放になり、景保は獄死。世にいう「シーボルト事件」ですが、これには続きがあります。

「実物」を取り上げられたものの、シーボルトは日本に関する資料の写しを取っていました。そして、オランダに戻ると、「日本人が作成した日本地図」に修正を加えて出版しました。その地図の精度に、ヨーロッパの識者が驚いたといいます。

 それほど近代的な測量技術と地図作成能力が江戸時代の日本にあったわけですが、この「日本人が作成した日本地図」(「大日本沿海輿地全図」)を手がけたのが、伊能忠敬でした。

 忠敬は延享2年(1745)、上総国小関村で網元を営む小関家に生まれました。

 子供の頃から星に関心を持ち、こんな話が伝わっています。

 ――漁師が暗い夜に出ていって、帰るべき港を見失ってしまうことがあった。忠敬は、「北の空に動かない星がひとつある(北極星のこと)。手前に柄杓の格好をした星が並んでいて(北斗七星のこと)、その1辺を5倍すれば、動かない星が見つけられる」と、漁師たちに教えた。

 ただ、子供の頃の忠敬は、不幸な境遇に置かれていました。

 父は小堤(おんづみ)という村の名主・神保家から婿養子に入った人でしたが、小関家と反りが合わなかったのか、妻が亡くなると離別されて、実家に戻っています。その際、忠敬は小関家に残されました。

 10歳の時に実父の下に引き取られますが、父が迎えた後妻に辛く当たられたらしく、グレてしまった。どの程度、グレたかはわかりませんが、家を出て放浪した時期もあったようです。

 しかし、その間も忠敬は天体観測への愛着を失わず、その基礎となる算術に、非常なる熱意を抱き続けました。家から60kmほども離れた土浦のお坊さんのところで算術を習ったとも伝えられています。

 年貢の額を決めるために訪れた役人たちが、名主である神保家を宿舎にした時、調べてきたデータを役人たちが計算しているのを忠敬が覗いていた。すると、役人が「やってみるか」と算盤を渡したので、忠敬はたちまち計算をして見せた。役人たちは顔を見合わせ、「この家にはすごい子供がいるな」と驚いた。そういう話もあります。

 

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著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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