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伊能忠敬――世界最高レベルの地図は、いかにして作られたのか

2018年04月03日 公開
2018年04月24日 更新

童門冬二(作家)

 


千葉県香取市佐原に残る伊能忠敬旧宅

 

50歳から歩み始めた第2の人生

 下総国佐原村の伊能家から養子の口がかかったのは、忠敬が17歳の時でした。

 利根川水運の拠点として繁栄した佐原村で屈指の名家だった伊能家は、当時、家業が傾いていて、その立て直しの担い手として白羽の矢が立ったのです。

 忠敬は、伊能家の娘ミチの婿となりました。この時、幕府に働きかけて、大学頭の林鳳谷から「忠敬」という名前をもらっています。

 もっとも、「グレた無頼者」という悪い評判が伝わっていて、最初は伊能家の居心地はよくなかった。忠敬はそれに耐えて、伊能家の再建に邁進し、江戸に支店を出すまでになります。

 その仕事の仕方は、小さなことを蔑ろにせず、着実に対応するというもので、二宮尊徳の「積小為大」(小を積んで大を為す)に通じるところがありました。

 また、調査、統計を重視し、科学的かつ合理的な手法を取り入れていた点も、尊徳に近いように思います。

 伊能家の再建を成し遂げた忠敬は、家督を息子の景敬に譲って隠居する意志を、40代の半ば頃に固めます。

「第2の人生」は、子供の頃から好きだった天体観測と暦の勉強にあてるつもりでした。しかし、名主の職責があるため、すぐには許されず、実際に隠居できたのは50歳の時です。

 隠居に際して、忠敬は家族と協定書を交わしました。おそらく、隠居後の経費を伊能家でもってもらう約束も、そこに含まれていたでしょう。しかし、彼の仕事ぶりから考えると、着実かつ周到に準備をしていたはずですから、彼なりに資金を積み立ててもいたと、私は見ています。

 

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著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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