明治7年(1881)1月12日、板垣退助が愛国公党を結成しました。板垣退助は幕末の土佐藩士、維新後は自由民権運動に尽力し、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉でも知られます。
板垣退助は天保8年(1837)、土佐藩上士・乾栄六正成の長男に生まれます。幼名猪之助。同じ上士の後藤象二郎とは、幼い頃からの遊び友達でした。少年の頃の退助は暴れ者で、二度藩から処罰を受けています。退助の母親は「喧嘩をしても弱い者いじめしてはならぬ」と退助にしつけ、喧嘩に負けて帰ってくるとすぐには家に入れません。また長じてからは、「卑怯な振る舞いをして、祖先の家名を汚してはならぬ」と言い聞かせました。
乾家は、武田信玄の重臣・板垣信方の子孫であるといいます。信方の死後、息子が改易されて誅殺される事件があり、信方の孫は乾と姓を改めました。その後、山内一豊が掛川城に封じられた折に召し抱えられ、山内家家臣になったといいます。
退助は藩から安政3年(1856)の20歳の時に処罰を受けた際、危うく家督相続すら許されないところでしたが、神田村に蟄居している時に庶民と交わり、身分に対するこだわりを捨てます。郷士に寛大な上士といわれるようになるのも、この辺に起因するようです。その後、藩主山内豊信(容堂)の側用役をはじめ、大監察、参政など要職を歴任しました。
退助は土佐藩上士としては珍しく武力倒幕派で、慶応4年(1868)の戊辰戦争では土佐勤王党の流れを汲み、主に下士・郷士で構成された土佐藩の主力部隊「迅衝隊」を率いて参戦。高松城接収後、東山道先鋒総督府の参謀として東山道を東へ進みます。そして大垣に至ると、甲府城接収に向けて、姓を乾から先祖の板垣に改めました。武田家旧臣の血筋をアピールすることで、甲府の地元の支持を得るためです。この目論見は成功し、無事に甲府城を接収すると、甲州勝沼の戦いで大久保剛(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊(新選組)を破り、江戸に至りました。
4月の江戸無血開城を経て、7月には東北の三春藩を開城させます。さらに会津攻撃のために8月初めに白河に進攻。退助は降雪の時期になると新政府軍に不利になるとして、早急に攻め込むことを主張しました。会津侵攻にあたり、退助は御霊櫃峠からと主張しますが、薩摩藩参謀の伊地知正治は母成峠を主張。結果的に母成峠を突破し、新政府軍は会津城下に雪崩れ込みます。思えば武田旧臣子孫の退助が、同じく武田ゆかりの会津藩を攻める指揮官を務めるのは、因果な話です。会津藩が降伏すると、退助は賊軍の汚名を着せられた会津を慮り、名誉回復に努めました。
明治元年、退助は土佐藩の陸軍総督、家老格となります。戊辰戦争までの活躍ぶりを見ると、退助は軍事的素質があり、また身分や敵味方にこだわらず、公正な態度で他に接することのできる人物であることが窺えます。しかし維新後は軍人ではなく、政治家の道を歩みました。
明治4年(1871)には明治政府の参議に就任。しかし、明治6年(1873)のいわゆる征韓論争で、閣議決定を岩倉具視らに覆されたことに憤り、西郷隆盛らとともに下野します。そして翌明治7年(1874)、五箇条の御誓文にある「万機公論に決すべし」を根拠に、人権を保護し、民撰議院設立を政府に要求することを目指して「愛国公党」を結成しました。また同年、高知に立志社を設立。時に退助、38歳。これらは自由民権運動の先駆けともいうべき結党でした。
明治14年(1881)、10年後に帝国議会を開設する国会開設の詔が出されると、退助は自由党を結党してその党首となり、全国を遊説して党勢拡大に努めます。そんな最中の翌明治15年(1882)4月、岐阜で演説後、建物の出口の階段で、退助は暴漢に短刀で刺されました。退助は土佐で呑敵流小具足術(体術)を学んでいたため、当て身をくらわせ、幸い致命傷は受けませんでしたが、左胸、右胸、指などに計7ヵ所の傷を受けます。この時に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われますが、それは伝説で、実際は暴漢を取り押さえた内藤魯一(元福島藩士)が事件後に発し、それを板垣の言葉にしたものでした。
退助は愛知県病院長の往診で治療を受けますが、病院長の人物に惚れ込みます。その病院長こそ、当時25歳の後藤新平でした。なお暴漢の相原尚褧に対し、退助は特赦嘆願書を明治天皇に送ります。後に相原が特赦で刑務所を出所し、謝罪に訪れると、退助はこれを許しました。
その後、退助は一度解党した自由党を再び結成。明治29年(1896)の第二次伊藤内閣の内務大臣、明治31年(1898)の第一次大隈内閣の内務大臣などを務め、明治33年(1900)に政界を引退。大正8年(1919)に没しました。享年83。
更新:11月23日 00:05