2017年05月11日 公開
2022年06月15日 更新
慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、土佐の武市半平太が切腹しました。土佐勤王党の盟主であり、坂本龍馬の親友としても知られます。
文政12年(1829)、半平太は土佐国吹井村(現、高知市仁井田)の郷士・武市正恒の子に生まれました。土佐藩は上士(山内家臣)と郷士(旧長宗我部家臣)の身分差が厳格ですが、武市家は白札という家格で郷士の中では最も高く、準上士の扱いでした。幼少から剣を学び、嘉永2年(1849)、21歳の時に両親を相次いで亡くしたため、祖母の面倒をみることになりました。同年、島村家の富子と結婚、夫婦仲は生涯睦まじかったといわれます。
嘉永3年(1850)、高知城下に転居、小野派一刀流を学んで頭角を現わし、嘉永7年(1854)、26歳で免許皆伝を得て、城下の新町に剣術道場を開きます。ここには血気盛んな郷士の若者たちが多く集まり、後年の土佐勤王党の母体となりました。
安政3年(1856)、藩より江戸剣術修行の許可が出て、鏡心明智流・士学館に入門。道場主・桃井春蔵より人物を買われ、免許皆伝とともに塾頭を務めます。また江戸に来ていた長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞らと親しく交わりました。その後、祖母の病のため土佐に戻りますが、その間に安政の大獄で藩主・山内豊信が隠居、また桜田門外の変で井伊大老が討たれます。時代は大きく動き始めていました。
祖母が亡くなると、文久元年(1861)に再び半平太は江戸に出ます。そして桂、久坂ら長州人や、薩摩、水戸の諸士と交わる中で、欧米列強が日本に圧力をかける今、「尊王攘夷」のために身分を問わず志のある者が起つことが急務と考え、江戸で土佐勤王党を結成しました。すぐに国許に帰り同志を募ると、坂本龍馬をはじめ、間崎哲馬、平井収二郎、吉村寅太郎、中岡慎太郎、岡田以蔵ら192人が加盟。その大半は郷士などの下級武士や庄屋層です。半平太が目指したのは、尊王攘夷を土佐が藩を挙げて実行することでした。
しかし、藩政を握る参政・吉田東洋は幕府の方針を重んじ、武市の説を書生論と決めつけます。そもそも東洋ら上士たちにすれば、郷士が藩政に口を挟むなど、許しがたいことでした。この旧態依然の藩の体質に愛想をつかした坂本龍馬らは脱藩しますが、半平太は東洋と対立する重臣たちに接近し、東洋排斥を企図。文久2年(1862)4月、3人の勤王党員に東洋を暗殺させました。藩を変えるには、非常手段しかないと考えたのでしょう。
東洋の死で反対派が実権を握ると、半平太の意向が藩政に反映されるようになります。 同年6月、参勤交代のため藩主・山内豊範が土佐を出立する際には、土佐勤王党の者も多数これに従い、一行が京都に入ると豊範は朝廷から在京警備と国事周旋を命じられ、京に留まることになります。半平太の朝廷工作の結果でした。そして他藩応接役を命じられた半平太は三条木屋町に居を構え、他藩の志士たちや尊攘派の公家たちと交わります。その一方で、安政の大獄で幕府のために働いた者たちは、次々と「天誅」と称する暗殺の血祭りにされました。手を下したのは岡田以蔵、田中新兵衛ら人斬りたち。陰で命じたのは、半平太であったといわれます。当時の半平太は「南海の墨龍」と呼ばれ、他藩の志士から一目も二目も置かれる存在となっていました。10月には攘夷督促のために関東に下向する公家の三条実美や姉小路公知の供を務め、江戸では前藩主・山内容堂にも拝謁しています。この頃が尊攘派と半平太にとって絶頂期だったでしょう。
しかし翌文久3年(1863)8月、いわゆる8月18日の政変で朝廷から尊攘派が一掃されると、土佐では前藩主・容堂が勤王党に牙を剥きます。一藩勤王を説くため帰国した半平太は捕縛され、投獄。京を震撼させた岡田以蔵も捕らえられました。それから入牢した者たちは、日々拷問にかけられました。半平太は上士格であったため拷問は免れますが、同志たちの悲鳴に自らの死を決します。やがて「主君への不敬」を理由に切腹を命じられた半平太は、妻・富手縫いの白装束をまとい、腹を三文字に切って果てました。享年37。
富との間に子はありませんが、半平太は生涯、妻以外の女性には見向きもせず、清廉潔白を通しました。そんな人物が暗殺に手を染めねばならなかった点に、土佐藩特有の事情と、動乱期の悲劇を思わずにはいられません。
更新:11月23日 00:05