慶応3年4月14日(1867年5月17日)、高杉晋作が亡くなりました。長州藩の志士で吉田松陰の高弟。奇兵隊を創設し、藩を倒幕へと突き進めたことで知られます。
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!」。元治元年(1864)12月15日、雪の舞う深夜の長府・功山寺。僅か80名の手勢を率い、萩藩政府打倒に立ち上がったのが、高杉晋作でした。多くの者はそれを無謀といい、高杉が創設した奇兵隊ですら、ともに起つことを尻込みしました。晋作は「われは俗論党に牛耳られた藩公のもとに駆けつけ、お諫(いさ)めする。途中、不幸にも俗論党に遭遇し斬られるならば、それは天命である」と訴え、「一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義を顕わすことができる。武士たる者、一時の安座も許されぬ」と説きますが、それでも奇兵隊はじめ諸隊は起たず、ついに晋作は「自分一人でもかまわぬ。われは赤間関(あかまがせき、下関の古名)の鬼となる」と叫び、寡兵での功山寺挙兵に踏み切るのです。
当時の長州藩は同年の禁門の変の敗退で「朝敵」の烙印を押され、下関では列強四カ国艦隊の攻撃を受け、さらに幕府が発動した長州征伐により、藩内の勤王派は一掃されて、幕府に恭順。藩政は保守派(俗論党)が握っていました。晋作はこの状況を打開するには藩政府を覆して、「長州割拠」を実現し、幕府に立ち向かうしかないと決断したのです。もちろん、成功するか否かは賭けです。すでに晋作は同志に手紙を送り、自分の死後、墓碑銘にはこう刻んでほしいと頼んでいました。もとより一命を捨てる覚悟だったのです。 晋作の手勢は馬関(ばかん、下関)新地の藩会所を襲って下関を制圧すると、続いて三田尻(防府)の藩海軍局の軍艦3隻を奪取、この勢いに諸隊も立ち上がり、合流し始めます。
そして翌年正月、秋吉台に近い太田・絵堂で俗論党軍を破り、さらに萩沖の海上から軍艦に空砲を撃たせて動揺させ、ついに萩政府を転覆させます。僅か80人で始まった決起の、奇跡的な成功でした。この瞬間、維新回天への歯車が大きく動き始めるのです。 半年後、幕府は第二次長州征伐を発令し、総勢15万の大軍が4方面より長州に迫りました。対する長州藩はわずか4000です。6月11日、幕府軍はまず軍艦をもって大島を制圧。すると海軍総督として下関にいた晋作は13日未明、軍艦オテント1隻で自ら3隻の幕府軍艦に夜襲をかけて、これを撃退します。さらに17日未明には、坂本龍馬率いる亀山社中のユニオン号の協力を得て、関門海峡対岸の敵陣を艦砲射撃し、大戦果を上げました。これを契機に長州軍が九州に上陸し、8月1日には征長軍総督小笠原長行の居城・小倉城を落城させ、長州藩の勝利を決定的にしました。
しかし、その直前、晋作は喀血して倒れます。労咳でした。そして長州が藩を上げて倒幕へと進む中、翌年4月、下関新地で瞑目しました。享年29。辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」はよく知られます。明治後、晋作が眠る吉田山に顕彰碑が建てられ、後輩の伊藤博文が一文を刻みました。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ我が東行高杉君に非ずや」。
短い生涯をおもしろく、気迫を込めて生きた晋作を、よく表現しています
更新:11月23日 00:05