2017年11月10日 公開
2023年10月04日 更新
2017年は、大政奉還から150年。これに合わせて高知県では、2017年3月4日~2019年3月31日(予定)の間、「志国高知 幕末維新博」を開催。県内各地の歴史文化施設などで、各種企画展示やイベントが行なわれる。
そのメイン会場である高知県立高知城歴史博物館の企画展「大政奉還と土佐藩」(9月15日〈金〉~11月27日〈月〉)を、10月19日(木)、作家・林真理子氏が、高知県知事・尾崎正直氏の案内で観覧。その後、満席の見学者やマスコミを前に、両氏が対談を行なった。
※尾崎正直氏の「崎」は、正しくは「大」の部分が「立」です。
【特別対談の模様は、以下のURLからご覧いただけます】
https://bakumatsu-ishinhaku.com/
司会 先ほど、林真理子先生に、3階展示室で企画展「大政奉還と土佐藩」をご覧いただきました。いかがだったでしょうか?
林 よくこれだけの史料を集めたな、と思いました。圧巻で、感動しました。恐らく、これほどの展示は、他にないんじゃないでしょうか。
尾崎 ちょうど「志国高知 幕末維新博」をやろうとしていた時に、龍馬の手紙が2つも新発見されました。「これは、龍馬さんが助けてくれているんだ」という気持ちがしましたね。
ところで、林先生には、高知県の観光特使も務めていただいています。
(会場から拍手)
林 「エンジン01(ゼロワン)文化戦略会議」のオープンカレッジ(2009年)以来、プライベートでも何度も高知に来ていて、大好きになりました。歴史についても話題が尽きない土地で、本当に面白いですね。
司会 林先生の最新刊で、2018年のNHK大河ドラマの原作である『西郷どん!』には、幕末維新期のさまざまな人物が登場しています。
尾崎 坂本龍馬も出てきますね。
林 龍馬なくして、薩長同盟は語れませんから。
執筆に当たって、さまざまな史料に目を通しましたが、薩長同盟が結ばれた時の坂本龍馬は、特に印象に残っています。薩長が睨み合ったまま、10日間、話が進んでいなかったところで、龍馬が涙ながらに、「10日間も何をしていたんだ」と、薩長同盟の重要性を訴えるんです。すごい迫力だったんだろうと思います。その歴史が動いた瞬間を、小説にきめ細かく書きたいと思いました。
尾崎 龍馬は、薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)を怒り、長州藩の桂小五郎にも怒りました。そんなことができたというのが、不思議ですねよ。
林 本当にそうです。龍馬は一介の浪人なのに、みんな龍馬の言うことを聞くんですよ。「お金を貸してくれ」と言われたら貸すし、「船を貸してくれ」と言われたら貸す。言いなりです。
尾崎 亀山社中は作ったかもしれないけども、「薩摩藩の高官、西郷吉之助様」と言われたら、「ははっ」とひれ伏すのが普通でしょう。身分制度のある江戸時代ですから。龍馬の話を聞き入れた西郷も素晴らしい。
林 「坂本先生」なんて呼んでいる人もいるんですよね。
尾崎 幕末には、既存の秩序が崩れて、もう肩書きなんて関係なくなってきていたのかもしれません。人間そのものが問われる時代になっていた。そんな時代に人間力を最も発揮したのが、龍馬だったのでしょう。
林 男尊女卑の時代なのに、妻のおりょうが怒ったら、泣きながら「俺が悪かった、許してくれ」と謝ったりもしています。それを薩摩藩士が見て、驚いています。
一方、土佐藩主の山内容堂は、最後まで身分制度にこだわっていたという話もありますね。
尾崎 有名なのは、勝海舟が容堂公に、龍馬の脱藩の罪を許してほしいと頼んだ時の話です。容堂公の反応は、「坂本? 別に構いませんよ」というものでした。龍馬のことを知らなかったんです。
林 ちょっと、がっかりです。
尾崎 大藩の藩主ですから、脱藩した郷士(下級武士)のことを知らないのは、仕方がなかったのかもしれません。土佐藩の中での序列なんて言っている時代ではなくなっていたのですが、それに気づいている人もいれば、気づいていない人もいた。
明治になってから、時代が変わったことに気がついた容堂公は、ものすごく後悔をしています。「武市半平太(土佐勤王党の党首)を殺すんじゃなかった」などと言っているんです。
林 司馬遼太郎さんの『酔って候』という小説を読むと、容堂にとっては、「酔っているうちに維新が来てしまった」ということだったようにも思えるのですが、実際はどうだったのでしょう?
尾崎 お酒をたくさん飲まれていたのは本当だそうですね。「鯨海酔侯」と名乗っていたほどです。
ただ、お酒は飲んではいましたが、大政奉還の建白を取り仕切った功績は大きいと思います。後に戊辰戦争が起きるものの、大政奉還によって、幕藩体制は平和裡に終わりを迎えました。それを成し遂げた歴史的功績は、容堂公のものでしょう。
ここで、天皇を中心とした国家体制を明確に打ち出せていなかったら、フランス革命後のように、共和政と帝政を交互に繰り返すことになっていたかもしれません。
林 容堂は、最後の最後まで、徳川慶喜を守ろうとしたようですね。
尾崎 容堂公は、幕府に篤く恩義を感じていましたから。先君が後継者を決めないまま亡くなっていて、普通なら改易になるところだったのですが、幕府に見逃してもらっているんです。そして、容堂公が末期養子のような形で跡を継ぎ、藩主になりました。
初代藩主・山内一豊の幕府に対する恩義もあるのでしょうが、容堂公本人も幕府に対して恩義がある。だから倒幕派にはならず、しかし勤王派であるというのが、容堂公だったとされています。龍馬が提示した船中八策にあった大政奉還というアイデアは、そんな容堂公にとって、ありがたい折衷案だったのでしょう。
林 容堂だけでなく、土佐の人は、薩長の人に比べると、慶喜に同情的なように感じます。
尾崎 どちらかと言えば、佐幕の藩でしたからね。佐幕なのに、維新に大きな貢献をしたというのが、すごいところだと思います。
林 多くの方が、龍馬が暗殺されるまでは土佐藩も頑張ったけれども、その後は薩長が新政府を作った、というイメージをお持ちなのではないかと思います。知事としては悔しいところじゃないですか?
尾崎 それは悔しいですよね。板垣退助が参議だった時までは、土佐と薩長のバランスが取れていたと思うのですが、征韓論の時、板垣が憤然と席を立って下野してから、日本政府は薩長のものになりました。昭和初期まで、日本政府では薩長閥が強い状態が続きます。
その代わり、土佐の人は、板垣が自由民権運動を起こしたように、在野で活躍することが多かった。それもまた、土佐の誇りです。
林 薩長閥が強かったとはいえ、長州(山口県)出身の総理大臣は今に至るまでいるものの、薩摩(鹿児島県)出身の総理大臣は大正時代で途絶えています。土佐(高知県)からは、浜口雄幸と吉田茂が出ていて、吉田茂の孫が、ついこの間まで総理大臣だった麻生太郎さんです。
尾崎 吉田茂は、竹内綱という土佐の志士だった人の五男です。本人の生まれは東京で、土佐とはほとんど縁がなかったのですが、選挙区は高知県でした。
高知に鉄道を敷いてほしいと総理官邸に陳情に行ったら、「高知のことは知らん」と追い返されたという話があります。地元に利益誘導をしない、立派な政治家ですね(笑)。
司会 林先生は『西郷どん!』に、「土佐の男たちは顎が張っているのが特徴で笑顔がとてもよい」と書かれています。
林 中岡慎太郎について描写したところですね。中岡の、すごくいい笑顔の写真があるので、それを念頭に置いていたのですが、先ほど、展示の案内をしていただいた際に、知事から、「この写真は、隣に芸者がいるから笑っているんです」と教えていただいて、ショックでした。芸者が写っていた部分を切ってあるそうなんです。
尾崎 そんなにショックでしたか。中岡は女性に優しかったんですよ(笑)。
私の中では、中岡は睨みつけるような顔をした堅物のイメージなので、「こんな一面もあったんですよ」とご紹介したつもりだったのですが。
厳しい顔をして、正面を向いて座っている写真もありますが、2枚とも同じ日に撮影されたものです。どちらを先に撮影したのかはわかりませんが、私は、芸者の横で表情が緩んでしまったので、その後で撮った写真では、過剰に表情を厳しくしたのではないか、と想像しています。
更新:11月23日 00:05