2017年08月21日 公開
2023年04月17日 更新
慶応4年8月21日(1868年10月6日)、会津戦争で国境の母成峠の戦いが行なわれました。国境を突破された会津藩は、以後、籠城戦を余儀なくされることになります。
8月21日早朝、新政府軍は郡山から会津に入る中山峠を攻めると喧伝し、会津藩側の目をそちらに向けておきながら、守備が手薄な母成峠を目指しました。参謀は土佐の板垣退助、薩摩の伊地知正治以下、薩摩兵を主力とし、その数はおよそ3000。一方、母成峠を守備するのは、日光口から転戦した大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊400人を中心とする、会津藩、二本松藩、仙台藩、新選組などの小隊700人に過ぎません。
大鳥は勝岩、石筵本道口の第一台場(萩岡)、第二台場(中軍山)、第三台場(母成峠)に布陣しました。 午前9時、濃霧の中で新政府軍の石筵侵攻を契機に戦端が開かれます。 大山弥助(巌)ら薩摩砲兵隊の砲撃で第一台場が炎上すると、大鳥らは後退を余儀なくされました。火器の性能に圧倒的な差があり、第二台場も失陥、母成峠へと追われます。新政府軍は20余門の砲を投入しているのに対し、国境に戦線が広がっていた会津藩はこの戦場に砲を5門しか回すことできず、一方的に陣地を粉砕されて、応戦ができませんでした。
やがて新政府軍が母成峠に猛攻をかけると、大鳥の退却命令も十分に伝わらないうちに、守備隊は潰走しました。この戦いで大鳥らは50余名が戦死、一方、新政府軍側の死者は2人であったといわれます。しかも新政府軍はそのまま一気に会津盆地に入り、猪苗代城を突破しました。このため大鳥らは磐梯山の山中に避退せざるを得ず、鶴ヶ城の会津藩中枢と連絡が取れなくなります。猪苗代方面の会津藩の戦力は指揮官不在の状況となり、翌22日、会津若松への入り口である十六橋を攻められ、新政府軍に確保されてしまいました。 このため、新政府軍は23日には、若松城下へ侵攻することになるのです。
会津藩では十六橋を死守するために、白虎隊、奇勝隊、敢死隊、誠忠隊ら200人余りが派遣されますが、母成峠を突破されてから半日以上、何ら手を打てなかったことが響き、手遅れでした。新政府軍にあまりにもやすやすと会津若松城下に迫られてしまったのは、会津藩側が国境に兵力を分散させており、事態に対応できる人数が揃わず、すべてが後手後手に回ってしまったためです。
しかもこの戦況に追い討ちをかけたのが、同盟を結んでいた米沢藩の変心でした。もはや会津藩に勝機はないと見た米沢藩は、南下して新政府軍の背後を衝こうとはしなかったのです。いずれにせよ、会津藩の防衛体制に欠陥があったことは否めず、本来であれば鶴ヶ城に、戦局を俯瞰して把握しつつ、戦略戦術を立てる人材を置くことが不可欠であったでしょう。
もし、日光口を死守していた山川大蔵が、会津藩全軍を率いて鶴ヶ城にあれば、あるいは会津藩の戦い方ももう少し変わっていたのでは? と想像してしまいます。
更新:11月22日 00:05