「西軍のなす所を見よ。民の財貨を奪い、無辜の民を殺し、婦女を姦し、残暴極まれり。これ姦賊にして王師(天皇の軍隊)に非ず」
佐川官兵衛の言葉である。
理不尽な上に、非道極まる敵に、会津武士が屈するわけにはいかなかった。官兵衛をはじめ男たちは、戦って、戦って、戦い抜く。
※本稿は、『歴史街道』2013年7月号(PHP研究所)の内容を、一部抜粋・編集したものです。
8月23日、若松城下に急迫した西軍(新政府軍)は一気に城を落とすべく本丸に肉薄し、猛攻を加えた。当時、多くの会津藩兵は藩境などに出兵しており、城内は婦女子や少年兵、老兵ばかりであったが、
しかし、八重たちの銃砲攻撃や、会津の老兵たちの槍での捨て身の攻撃などにより、西軍は180余名の死傷者を出し、攻撃を断念する。
強攻策の失敗を受けて、西軍参謀の板垣退助は城を徐々に包囲していく作戦に切り替えた。
8月23日段階の西軍兵力2千余では到底、名城若松城を一気に包囲することなどできなかったし、多数の会津藩兵がまだ城外にいる状況であり、少ない兵力で無理して包囲網を広げた場合、城内と城外の会津藩兵に挟撃され、大損害を蒙る恐れもあった。
一方、城外の会津藩の部隊にとっても、いかに城に帰還するかは大問題だった。猪苗代湖東岸を守備していた小原宇右衛門率いる第一砲兵隊百名が、8月23日に敵と交戦しつつ天寧寺町口から入城するが、多数の死傷者を出し、小原も戦死している。
25日には白河口総督の内藤介右衛門が兵千余名を率いて、手薄だった城の東南の敵を破って不明門、南門から強行入城した。だが、とりわけ出色だったのは山川大蔵である。
日光口で戦っていた山川は、若松城近隣まで戻ると、城から1里ほど離れた小松村で彼岸獅子(会津の獅子舞)を調達し、その囃子を先頭に立てて行進させたのである。
耳に馴染んだ囃子を聞けば、どんな会津兵も味方だとわかる。一方の西軍は、一体何か起きているのか呆気にとられ、ただ拱手傍観、山川隊の隊列を見送るだけであった。山川は河原町郭門から郭内に入り、全員無傷で西追手門から堂々の入城を果たした。
次々の入城で、城内の兵力は3千ほどになり、士気も大いに高まった。会津藩は体制の立て直しを図り、山川大蔵が軍事を統括することとなり、指揮系統は大いに旧来の面目を一新した。
この時、佐川官兵衛は城外の戦いの総督を命じられ、8月29日に決死隊千名を率いて出撃し、敵を掃討して城の南西方面の糧道を確保する任に当たることになった。
8月28日夜、容保は官兵衛の出撃を壮として酒を賜り、佩刀を与え、官兵衛も「もし利あらずんば、再び入城して尊顔を拝せず」と、その覚悟を示した。だが、官兵衛はその賜酒に沈酔し、予定時刻の翌日未明になっても起きてこない。
結局、出撃は朝の7時を過ぎていた。融通寺町口から突出した会津兵は、懐中に遺書を忍ばせ、文字通り決死の攻撃を敢行。この方面の備前藩、大垣藩の陣地を破り、さらにその先の長命寺を奪取する。
だが土佐、薩摩、長州などの軍が次々と来援。会津藩は次第に押され、白兵突撃を幾度も敢行するが敵を崩すことができず、遂に容保から退却命令が発せられた。
この戦闘で、会津藩の精鋭百数十名が戦死。官兵衛は自軍を城中に退却させるも、自らは敗戦の責を取り入城せず、以後、城外で手兵を率いて糧道確保のための戦いを続けることとなった。
その官兵衛が大きな戦果を挙げたのは、9月5日のことである。薩摩藩の中村半次郎に率いられた日光口からの西軍部隊(主力は佐賀藩や芸州藩など)が若松城下に入ろうとしていることを知った官兵衛は、砲兵隊を伏兵にして秀長寺付近で待ち構え、敵が迫るや一斉に攻撃。
西軍は周章狼狽し、多くの軍需品を遺棄して潰乱した。官兵衛は銃砲や弾丸、糧食などの鹵獲品を城内に送り届けたのであった(住吉河原の戦いともいう)。
官兵衛や越後口の戦いから撤退してきた一瀬要人、さらに山口二郎(斎藤一)率いる新選組などの諸部隊は城の南西方面で糧道を確保すべく奮戦し続けた。だが、西軍が続々と来援。その数はのべ3万にも上り、次第にこの方面も強く圧迫されるようになる。
9月4日には城の西方の如来堂に陣取っていた新選組が敗退(山口二郎は脱出)。9月15日には、一瀬らの部隊が新政府軍と遭遇。一進一退の激闘を繰り返し、城の南方の一ノ堰村で辛うじて西軍を追い払うが、指揮官の一瀬要人をはじめ多くの死傷者を出し、撤兵を余儀なくされた。
玄武隊(老兵部隊)の一員として戦っていた八重の父、山本権八もこの戦いで戦死している。佐川隊はなおも日光口を進軍せんと大内宿、田島方面で苦闘を続けるが、戦局を覆すには至らなかった。
9月4日に米沢藩が降伏したのに続き、同15日には仙台藩も降伏する。最後まで糧道を確保していた城の西南部も西軍の手に落ち、若松城は完全に孤立に追い込まれた。
9月14日から西軍の総攻撃が始まる。城の周囲に陣取った50門に及ぶ大砲が轟然と火を噴く。9月16日には、西軍の板垣退助か米沢藩を通じて降伏を勧告。戦って、戦って、戦い抜いた会津藩が若松城を開城したのは9月22日のことであった。
更新:11月23日 00:05