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福井名物「ソースカツ丼」はなぜ生まれた?“天皇の料理番”秋山徳蔵とヨーロッパ軒創業者の絆

2026年10月29日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)

JR福井駅前写真:令和6年(2024)3月に北陸新幹線が開通したJR福井駅前。数体の動く恐竜が鳴き声とともに迎えてくれる。福井県内に恐竜化石が多数発見された地層があり、恐竜博物館も運営されることから、県のシンボルとなっている

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

全国的にはカツ丼といえば、和風の出汁(だし)を使ってカツを玉子でとじたものを載せた丼物が一般的である。しかし、福井県内の飲食店でカツ丼を注文すると、ウスターソースに浸したカツを飯の上に載せたソースカツ丼が運ばれてくるのが普通で、福井名物ともなっている。

これほどソースカツ丼が普及した理由は、福井市内の老舗洋食店がカツ丼の元祖としてこの形の丼を大正時代から提供していて、それが地域で愛されて広まったからだという。

そのカツ丼を生んだ一人の料理人の経歴をたどると、そこには、この国にヨーロッパから西洋料理が導入されるとともに、独自の洋食が成立していった歴史、そして著名な料理人との関わりも見えてくるのである。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

明治期のドイツ・ベルリン、二人の日本人青年の出会い

ヨーロッパ軒の創業者・高畠増太郎氏と、ヨーロッパ軒総本店写真:ヨーロッパ軒の創業者・高畠増太郎氏〔写真左・写真提供:ヨーロッパ軒総本店〕と、現在のヨーロッパ軒総本店の店頭

日本での西洋料理店の嚆矢(こうし)として、東京銀座に存在した築地精養軒が知られる。明治5年(1872)、外国人居留地があった築地に開業するが、その開業当日に起こった銀座大火で全焼。翌年、生まれ変わった銀座の煉瓦(れんが)街の一画に、ホテルを併設した壮麗な洋式建築でもって再建された。明治9年(1876)には、現在も営業が受け継がれている上野精養軒も開業する。

文明開化の時代、洋式マナーへの精通を求めた政府によって、精養軒は官吏・軍人の利用が推奨されるとともに、学者や文化人に愛用され、西洋文化普及の中心となった。

明治38年(1905)から約2年、その築地精養軒の厨房(ちゅうぼう)で、一人の若者が調理を学んだ。のちの大正から昭和期、宮内庁の主厨長を務め、「天皇の料理番」として小説やドラマの主人公のモデルにもなったフランス料理の大家、秋山徳蔵である。

秋山徳蔵は、明治21年(1888)、福井県今立郡村国村(現在の越前市村国)生まれ。少年時代に食したカツレツに衝撃を受けて、西洋料理の職人を志し、上京して著名料理店で研鑽(けんさん)を積む。精養軒の料理長だった西尾益吉にならい、フランス料理の習得のためにヨーロッパに向かったのは、明治42年(1909)、20歳のときであった。

秋山がヨーロッパで最初に仕事場としたのは、ドイツ・ベルリンのホテルアドロンの調理場である。そして、この地で期せずして、同じく西洋料理を学ぶ日本人青年と出会う。秋山より1歳年下の高畠増太郎である。高畠が同郷の福井出身ということもあって懇意となり、翌年、秋山がフランス・パリへと修業地を移して以降も、二人の交友は続くことになる。

そして、この高畠増太郎こそ、のちにソースカツ丼を創案し、福井にそれを定着させた人物であった。

 

元祖カツ丼を生んだ料理人の遍歴と帰郷

ヨーロッパ軒総本店のソースカツ丼写真:ヨーロッパ軒総本店のソースカツ丼。薄くスライスした豚のロース・モモ肉に、目の細かいパン粉をまぶし、ラードでカラっと揚げたカツが特徴。香り高いウスターソースは、カツを浸すだけでなく、飯のほうにもかけられている。脂っこくないので、キャベツなどは敷いていない

高畠増太郎は、明治22年(1889)、福井県吉田郡中藤島村(現在の福井市高木町)に生まれた。当時4年制であった尋常小学校を卒業後、10歳で福井市内の魚屋に丁稚(でっち)奉公に出る。その後、名古屋大須の寿司店、山梨の料理旅館などで料理人としての修業を重ねた。

増太郎の大きな転機は、明治40年(1907)、17歳のときであった。イギリスに向かう日本政府の使節団の船にコックとして採用され、喜望峰回りでヨーロッパに向かうのである。庶民にとって洋行が未知への旅であった時代、彼の胸中にいかなる思いがあったのか。

到着後、増太郎は紹介を受けて、ドイツ・ベルリンにあった日本人倶楽部の食堂に勤める。この倶楽部は、ベルリンの日本人会が運営していたものと思われる。以後、ベルリンに在住あるいは訪問した日本人に日本料理を提供するかたわら、増太郎は西洋料理について学ぶ。そうしたなかで秋山徳蔵とも出会ったのであった。

明治45年(1912)、22歳になった増太郎は、見合い結婚のためにシベリア鉄道を使って帰国する。一時帰国のつもりだったが、明治天皇崩御の大喪で海外渡航に対して自粛要請があり、増太郎はドイツへの再渡航を諦め、国内でのレストラン経営を図る。ドイツに残した家財などの処分は、秋山徳蔵に依頼したという。

大正2年(1913)11月28日、24歳を迎えたその日、増太郎は東京の早稲田鶴巻町に西洋料理店「ヨーロッパ軒」を開店。それに先立って東京で催された料理発表会で、ウスターソースで味付けした、自ら創案の「カツ丼」を披露して好評を得たことから、店での提供を始めたのであった。

カツ丼の誕生については諸説あるが、ソースカツ丼の登場は玉子とじカツ丼に先んじていたと見られ、なかでも増太郎による創始は、経緯が歴然としており、年代としても早い。早稲田のヨーロッパ軒でカツ丼を食べたという証言も伝えられていることから、これをカツ丼の元祖としても問題はないと思われる。

ところで同年の大正2年には、秋山徳蔵が帰国している。翌年に予定されていた大正天皇即位の大典で、外国賓客に本格的なフランス料理を提供する料理長として、パリの日本大使館の推薦を受けて招聘(しょうへい)されたのである。宮内省大膳寮初代厨司長に任じられた秋山は、以後、大正期から昭和期にかけて「天皇の料理番」を務めることになる。

実はこの大典に際して、増太郎は秋山から一緒にやらないかと声を掛けられている。しかし、自身の性格は宮仕えには向かないと辞退し、民間でのレストラン経営に専念することを選んだという。

大正6年(1917)3月、増太郎は神奈川県横須賀追浜(おっぱま)へと、料理店とともに引っ越す。学生客が主だった早稲田では、夏休みの時期などが閑散となる難点があり、一方、帝国海軍鎮守府が置かれた軍港都市・横須賀での洋食需要を見込んでの移転であったと思われる。

移転から6年余が過ぎた大正12年(1923)9月、関東大震災が発生。築地精養軒をはじめとした銀座の街を焼失させるなど、帝都に壊滅的被害を与えたこの大地震は、横須賀にも甚大な被害をもたらした。被災した増太郎は、横須賀での営業を断念して福井に帰郷する。そして、翌年の大正13年(1924)1月、福井旧城下の片町通り、現在の総本店の並びにあった町家で「福井ヨーロッパ軒」を開業したのである。

 

日本の飯とヨーロッパのカツをソースで結ぶ

ヨーロッパ軒総本店の店内写真:ヨーロッパ軒総本店の店内。同店では、各種カツレツ、ステーキ、カレーライス、オムライス、ランチなどの洋食メニューも豊富。2代目がヨーロッパ視察後に考案した、トンカツの代わりにミンチカツを載せたオリジナルの「パリ丼」も名物

「曽祖父の増太郎が福井で店を開いた当時、この地では西洋料理店はまだ珍しく、草分けだったのだと思います。玉子でとじるカツ丼が普及する以前に提供できたことで、ソースカツ丼が福井に定着することにつながったのでしょう」。そう推察するのは、今回の取材で協力をいただいた、有限会社ヨーロッパ軒総本店の代表取締役社長の高畠輝成(てるあき)さん。福井ヨーロッパ軒を受け継いで4代目にあたる。

「もっとも、初代がカツ丼を作ったきっかけは、ドイツで知ったウスターソースを、ご飯にあわせて日本人に食してもらいたいという考えがあってのことだったと聞いています。そして、ソースライスに合うおかずは何かと試行錯誤するなかで、カツを載せてみたら、これが一番いいということでカツ丼が誕生したのです」。

西洋料理は日本に入って以降、進化を見せて独自の「洋食」を成立させてきた。その理由は、飯と相性のよい料理を追求したことによるといわれる。日本の洋食になくてはならないウスターソースも、もっとも飯に合うソースとして取り入れられてきたといえる。ヨーロッパ軒のカツ丼もまた、そうした思いのもとで誕生した日本の洋食の原形であった。

一方で、ヨーロッパ軒のカツ丼には、ドイツで料理を習得した増太郎ならではの個性も生かされている。カツはカツレツともいうが、フランス料理のコートレットに由来するといわれる。同じく肉にパン粉の衣をつけてフライパンで揚げ焼きした料理が、ドイツやオーストリアにもあり、こちらはシュニッツェルという。仔牛(こうし)肉を使ったウィンナーシュニッツェルは、ウィーンの名物料理にもなっている。このシュニッツェルは薄く伸ばした肉、細かいパン粉を用いるのが特徴で、ヨーロッパ軒のカツ丼のカツには、その影響が明らかに見てとれる。

「昔とまったく同じ素材というわけにはいきませんが、初代のスタイル、味は基本的に変えることなく、カツ丼を代々作ってきました。今の皆さんが召し上がっても、おいしいといってもらえるそのカツ丼を、110何年か前に考案した初代は本当にすごいなと思います。初めて食べた方でもどこか懐かしく、何年かぶりに食べた方にはこの味だねといってもらえる、そんなカツ丼をこれからも提供していきたい」と輝成さんは、継承への思いを語る。

家族でごちそうというときの定番の店として、ヨーロッパ軒は地域で親しまれてきた。現在はのれん分けなどによって、福井市内に総本店を含めて11店、敦賀市内5店、春江・丸岡・神明に各1店、計19店舗のグループ店が営業している。福井の名店としても全国に知られ、北陸新幹線の開通後、東京など関東方面、また海外からの来客も増えているという。

「秋山徳蔵氏は、一徹な料理人として有名でしたが、増太郎も同じ性格だったようです。その曽祖父は、記憶はないのですけれど、私が2歳のとき、昭和52年(1977)に亡くなりました。3代目の父に聞くと、お酒を飲んで陽気になると、ドイツの歌を歌っていたといいます」。

昔ながらの洋食店の雰囲気を残すヨーロッパ軒総本店。そのテーブルに運ばれたカツ丼の香ばしいカツをかじり、少しスパイシーで甘酸っぱいソースをまぶしたライスをかき込む。かつては遠かった西洋の文化への憧憬が、胸によみがえってくるようだった。

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