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秘伝の天ぷらと夏祭に宿る歴史 港町にして城下町・尼崎の素顔

2026年07月22日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)

復元尼崎城天守
写真:復元尼崎城天守。篤志家と市民の寄付のもとに竣工。内部は尼崎城と地域の歴史を紹介する体験型の施設になっている。なお、本来の天守があった本丸は少し南西側。明治維新後、堀を含めて城郭は完全に失われ、本丸跡には学校などが設けられた。その戦前に建てられた旧女学校の建物が改修され、令和2年(2020)に市立歴史博物館として開館している

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

大阪市に隣接する兵庫県尼崎市は、近代工業発展の最前線となった地である。そのために海岸が埋め立てられ、多くの鉄道や幹線道路が敷かれるなど、近世以前とは地理そのものが大きく変化し、かつての地域像は影を潜めた感がある。しかし、この地域には、平安時代以来、摂関家や有力寺社の荘園が設けられ、沿岸には京都と西国を結ぶ舟運の拠点港が栄えた。さらに近世には、譜代大名が治める尼崎城が置かれ、海に臨む城下町はにぎわいを見せた。

令和元年(2019)、阪神尼崎駅の南側、かつての尼崎城の西三之丸跡地に復元天守が完成。城下町尼崎への関心が改めて高まった。

その旧城下町である商店街の一角に、地元の人たちに長く愛される、魚のすり身を揚げる天ぷらの老舗がある。また、近くには、熱気に満ちた夏祭で知られる、城下町の氏神である神社が鎮座する。それらに秘められた尼崎の歴史をたどった。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

尼崎の「あま」の元は「海士」。漁師の住む地に由来

尼崎地域で古くから開発が進んだ地域としては、長洲(ながす)荘が知られる。奈良時代に東大寺領とされた地で、平安時代に入ると荘園が成立する。そして、その海に面する場所にできたのが、大物浦(だいもつうら)と呼ばれる港であった。場所は現在の阪神大物駅付近と考えられ、海辺からかなり離れた場所だが、かつてはこのあたりに海岸線があったのである。

大物浦は、西国と瀬戸内海経由で結ぶ船と、神崎川・淀川を通じて京都とつなぐ川船の間で、物資を積み替える中継港として大いに栄えた。『平家物語』には、兄の源頼朝から討伐の対象とされた義経の一行が、大物浦から西国に船で逃避を試みる場面があり、世間に知られた要港であった。

この大物浦の南側には、漁師たちが住む洲のような土地があり、彼ら漁師は、平安時代後期に京都の賀茂社(上賀茂・下鴨神社)の神人(じにん)となった。神人とは、神社に所属して諸役を務める民のことで、荘園領主の過大な要求を拒否し、自立を図る目的で、中世期にかけて神人となる荘民が少なくなかった。当地の漁師たちは、賀茂社に魚を奉納する見返りに、漁業の権利を確保したのである。このように産物を神社に調進する地を御厨(みくりや)という。

この漁師たちの住む場所は「あまがさき」と呼ばれた。古文書には「海士崎」「海人崎」「海崎」などと記される。

さて、ここからは推測だが、漁師たちは川を遡って京へと運んだ魚を、賀茂社に納めただけだっただろうか。内陸の京都では、海の魚は非常に貴重であり、引く手あまたであったと思われる。おそらく漁師たちは、貴族や裕福な商人たちに魚を売ることがあったのではないか。そして、京の人々は、訪れを待ち望んだその漁師たちを「尼崎」の者と記したのではなかろうか。都でのその呼称は、いつしか一漁村から周辺を含めた広い地域を指すものとして定着したのであろう。

 

大坂の西の守り、譜代大名が治めた尼崎城

尼崎城下の総氏神・貴布禰神社写真:尼崎城下の総氏神・貴布禰(きぶね)神社。水神をまつり、尼崎城主も雨乞いの神事をここで行なってきた

中世期に入ると、大物浦には商人が集住し、寺院が幾つも営まれるなど、自治都市が確立する。要衝であるだけに争乱にもしばしば巻き込まれ、享禄4年(1531)、管領細川高国が、戦いの末に仇敵(きゅうてき)の細川晴元によってこの地で自害させられた「大物崩れ」に、地名を残している。

詳細は不明だが、この大物崩れの頃に、すでに大物城と呼ばれる城があり、のちにこれをもとに、摂津伊丹の有岡城主・荒木村重の長男・村次が尼崎城(尼崎古城)を築いたという。織田信長に対して謀反し、糾弾された村重は一時、この城に逃げ込んでいる。大坂の陣の勝利によって徳川の世が定まって2年後の元和3年(1617)、この地に徳川譜代の戸田氏鉄(うじかね)が入府。幕府の命のもと、古城の西側に新たに尼崎城を築き、城下町を整備した。

氏鉄は、築城や治水などに手腕を発揮した治世者であった。尼崎旧城下町の東側、現在の大阪府との境界を流れる左門殿(さもんど)川の左門とは、氏鉄の通称で、彼によって整備されたことを顕彰して名付けられたという。旧城下町西部の一画に寺院が密集する寺町があって、旧来の風情を残すが、これも城下町建設の際に、氏鉄が地域の寺院を集めたものである。寛永12年(1635)、氏鉄は加増を受けて美濃大垣に移封。こちらでも藩政に功績を残している。

氏鉄が築いた尼崎城は、その後、青山氏4代、松平(桜井松平)氏7代と譜代大名によって、明治維新まで引き継がれた。その城郭は、ほぼ正方形の本丸を持ち、その北東隅に4層の天守を構え、他の3隅に3重の櫓(やぐら)を配置。本丸を中心に3重の水堀が巡らされ、その東西に城下町が広がっていた。城の南側には、遅れて沿岸の洲をもとに築地町(つきじちょう)も造成されている。

城下には大坂につながる中国街道が通り、大坂の西を守護する城でもあって、これが譜代大名が配された理由である。城郭の規模も藩の禄高に比して立派なものであったといい、徳川2代将軍秀忠ならびに3代将軍家光が視察に訪れてもいる。

大坂近郊にあって流通の便に優れる尼崎城下町では、各種商業が発展。古来の漁業も引き継がれて、築地町には漁師たちが集住し、城西側の沿岸部にあたる中在家町(なかざいけちょう)には魚市場が設けられ、生魚問屋の取引は瀬戸内海全域に及んだという。

近世尼崎の漁業の繁栄を伝える資料に『尼崎産魚』という図譜がある。享保20年(1735)にまとめられたもので、平成28年(2016)に市に寄贈されて世に知られることになった資料である。そこには、80種の魚介類が彩色鮮やかに描かれていて、豊かな漁場があったことがしのばれる。古代以来の地域の漁法である地引網や底引網による、それらの海産物の収穫は、明治時代まで続き、大阪・京都などに盛んに出荷された。しかし、明治末期以降、都市化や工業地帯化が進展すると、尼崎の漁業は衰退。埋め立てによって海岸線もずっと南へと後退し、その形跡も埋もれてしまった。

 

創業170年の老舗蒲鉾店の天ぷらと300年来の夏祭

尼崎桝千の店頭に並ぶ天ぷら写真:尼崎桝千(ますせん)の店頭に並ぶ天ぷら。金網かごに積み上げての販売も、お店の昔ながらのスタイル

しかし、尼崎の魚産業の伝統は、形を変えて生き続けている。

「江戸時代末の安政年間(1854-1860)に、尼崎城下の漁師町にいた初代が、魚を保存できる食べ物はないかと考えて、蒲鉾(かまぼこ)を作り始めたと聞いています」と、創業の経緯を語るのは、蒲鉾・天ぷらの老舗「尼崎桝千」の9代目、店を継いで8年という代表取締役社長の尾上貴之さん。桝千は阪神尼崎駅から西側に連なる尼崎中央商店街に店舗を構え、地元なら知らない人はいない名店である。

桝千の主力商品は「天ぷら」である。ここでいう天ぷらは、魚介や野菜に衣をつけて揚げたものではなく、魚のすり身を油で素揚げした練り物・揚げ蒲鉾のこと。関東では薩摩(さつま)揚げと呼ぶことが多いが、関西では天ぷらという。桝千では、定番の平天・ごぼう天のほか、人気のキクラゲを練り込んだ白天、香り高いしょうが天・さんしょう天など7種類を販売。客足は途切れないほどで、一日に2000枚から3000枚を製造して売り切れるという。

「通常は、天ぷらの材料のすり身は、蒲鉾よりランクが低いものを使うのですが、うちでは蒲鉾に用いる上質のすり身を揚げています。また、添加物は一切、使用していません」。その尾上さんの言葉どおり、桝千の天ぷらはプリプリとして食感から違い、頬張ると旨味が口一杯にあふれる。魚のすり身は、季節によって完成品の身のしまりが変わることがあり、その仕上げや伸ばし方に非常に気を遣い、秘伝を要するが、手作りで揚げる調理場は通りから見えるようになっていて、これも自信の表れであろう。

毎週、大河ドラマを楽しみにしているという歴史ファンの尾上さん。「山崎の戦いの前に、秀吉が尼崎に入って作戦を練ったことを知り、地元が歴史の現場となったことがうれしかったですね」と笑う。「桝千」の屋号は、初代で尾上さんの先祖でもある桝本千太郎(ますもとせんたろう)の名を継ぐという、こちらも由緒あるものだが、自身の事業の歴史にはむしろ謙虚に、天ぷらを日々揚げて応え、守り続けている。

さて、もう一つ、尾上さんも夏が来たと感じるという、地元の歴史文化がある。毎年8月1日・2日に開催される、貴布禰神社のだんじり祭である。

貴布禰神社は、鎌倉時代末期の嘉暦(かりゃく)元年(1326)の創建と伝わり、もとは尼崎城内にあたる場所に鎮座していたが、戸田氏鉄の築城の際に城下に移され、正徳5年(1715)に中央商店街の南側にあたる国道43号沿いの現在地に遷座。尼崎城主の祈願所となるとともに、城下8町の総氏神とされてきた。

主祭神は神社名からもわかるように、京都の貴船神社と同じくする高龗神(たかおかみのかみ)。また、賀茂社の神も配祀(はいし)され、御厨時代以来のこの地域と京都の結びつきをうかがわせる。これらの神々は水に関わる神であり、かつて境内も海に面していて、尼崎の舟運・漁業関係者からの崇敬も集めた。

そして、この地に鎮座して以来、300年余の歴史を伝えるのが、夏季大祭・だんじり祭である。初日1日には旧城下8町のだんじりが宮入り。あわせて「暴れ太鼓」が繰り出し、豪快に横倒しにする迫力の演技を披露する。2日目の最大の見どころは「だんじり山合わせ」。巨大なだんじり同士が正面から激しくぶつかり合う光景は圧巻で、参拝者から大きな拍手が贈られる。境内周辺には約100軒の夜店も並び、約5万もの人々が訪れて町を熱気と興奮で包む、尼崎の夏の風物詩である。その盛況に、かつて城下の町衆の活力を感じ取ってみたい。

貴布禰神社の夏祭での「だんじり山合わせ」写真:貴布禰神社の夏祭での「だんじり山合わせ」。だんじりをぶつけ合う約3時間にわたる熱戦に、観衆の視線は釘付けになる

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