2026年01月30日 公開
写真:盛花時期の青谷梅林。生産梅林であるこの地の花は、主に白梅である〔写真提供:城陽市・公募入選作「梅香る」〕
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
京都と奈良を結ぶ幹道を奈良街道という。特に南山城地域を通る、古代からの道は山背(やましろ)古道とも呼ばれる。その街道沿いの城陽市は、京都・奈良の町からともに五里(約40キロメートル)の中間に位置することから「五里五里の里」とも称する。
その城陽市南部の丘陵に、青谷(あおだに)梅林がある。古くから梅の実の産地、そして観梅の地として知られ、このことから市の木として梅が指定されてもいる。毎年早春には「梅まつり」が催されて多くの人でにぎわうこの梅林の過去と現在を、地域の発展に尽くしてきた人々の事績とともに紹介したい。
【筆者:兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【編者:歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

写真:「梅まつり」の頃の青谷梅林〔写真提供:城陽市・撮影:塩見芳隆「満開の梅」〕
「風かよふ綴喜(つづき)の里の梅が香を空にへだつる中垣(なかがき)ぞなき」。歌の詠者の宗良(むねよし/むねなが)親王は、後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。南北朝時代に南朝の征夷(せいい)大将軍として奮戦を繰り広げた人だが、歌人としても知られる。この和歌は晩年の自選集『宗良親王千首』に収められるが、南北朝動乱以前の若き日の詠歌かもしれない。
旧綴喜郡青谷村を所在地とするとはいえ、青谷梅林がこの時代からあったわけではないが、当地の梅がすでに歌われる存在であったことを伝えるとともに、青谷の丘の広々とした春の空のもとで香る、現在の梅林の印象ともつながる初々しい歌である。
青谷梅林の起源については、明治42年(1909)に京都府農会が調査して刊行した『京都府園芸要覧』の「綴喜郡青谷村の梅」の項によると、江戸時代の安永年間(1772-1781)に山間の痩せ地に数十本の梅樹を栽植したことを始めとし、天保から安政年間(1830-1860)に増殖されたという。
詳しくは後述するが、明治33年(1900)に青谷梅林の観光振興を目的に『青谿(あおだに)絶賞』という図書が刊行されていて、そのなかで地元の言葉として、江戸時代末期、盛花の候の梅林は偉観を呈したといい、観梅のために淀藩主稲葉侯が来訪したことがあり、その装束と梅花が相競う様子が見事であったと伝えている。ちなみにその証言では、青谷梅林の植樹の始めは160年から170年前のことといい、安永年間より少し前に遡る。
このように近世に発展を見せた青谷の梅栽培であったが、その主立った需要は、実は食用ではなく、布の染色に用いる「烏梅(うばい)」としてであった。

写真左:青谷梅林梅まつりにて。2026年の開催は2月28日から3月15日を予定。売店の営業は10時から15時。写真右:城陽市特産の梅「城州白(じょうしゅうはく)。肉厚で桃のような香りが特長〔写真提供:城陽市〕
烏梅とは、未熟な梅の実を燻製(くんせい)にして乾燥させたもの。漢方の感冒薬・胃腸薬として用いられ、遣唐使によって早い時代に日本にもたらされたといい、現在も中国で処方されている。真っ黒なところから、カラスの「烏」の字があてられ、一説にその中国読み「ウ・メイ」が、日本での梅の読み「ウメ」の元になったともいわれている。
日本では「焼梅」「黒梅」とも呼ばれる烏梅だが、国内で広まったのは、医薬とは別の用途からであった。紅花染めにおいて媒染剤として使われたのである。紅花の赤い色素は布に定着しにくい性質があり、染色液に烏梅を加えることで、烏梅に多く含まれるクエン酸の働きによって布を染め上げる手法が採られた。その用途を踏まえてか、烏梅の製法も日本では異なり、完熟して落下した梅の実に煤(すす)をまぶして蒸し焼きにし、天日で乾燥させて製造される。
京・大坂の染物商をはじめとして烏梅の需要は大きく、高価で取引されたことから、田畑が設けにくい山間地で梅の栽培と烏梅の製造が図られた。著名な梅林である奈良県の月ヶ瀬梅林は、烏梅の量産を背景に造林されたものである。青谷でも盛んに烏梅が作られ、近世末期には旧青谷村を構成する3集落の一つの中村だけで、年間300石(俵で750俵)以上、生梅にして約4万貫(150トン)分が出荷されたという。
しかし、その烏梅の需要は、明治維新を迎えていきなり消滅する。海外から導入された安価な媒染剤・染料に取って代わられたからである。
青谷の梅林では、明治初期の有力な輸出品であった茶の畑への転換が進むことになる。しかし、一方で失われていく梅林を惜しむ地元の人たちがいた。彼らが着目したのが、観光資源としての梅林であった。
明治29年(1896)、現在のJR奈良線の前身にあたる奈良鉄道が開通。これを機に明治31年(1898)に青谷保勝会が設立された。保勝会とは、史跡名勝の保存・保護を目的とし、観光に活用することで地域振興を図る団体で、明治時代に入って各地で設立された。
青谷保勝会の中心となったのは、青谷村の大地主で初代村長の大西常右衛門をはじめとする村の有力者たちで、彼らは2年前に山城農産株式会社を設立して、梅肉やのし梅などの製品の開発を進め、梅の果実での収益増と梅林の再生をめざす人たちでもあった。
保勝会発会式では、京都の文化人を招いて梅林を案内し、翌年には、鉄道割引券を付けた観梅会を開催。梅林内に茶店を設営するなど、観覧のための施設も整えた。2年後には、先に挙げた『青谿絶賞』を刊行する。文人の山中青谿(せいけい)による紀行文と漢詩に、山中の友人である画家の対竹による「青谷八勝図」を添えた青谷梅林の案内書である。淀藩主来訪など、文中に記した江戸時代の様子を聞き取った相手は、大西村長であった。
こうした地元有志の活動によって青谷梅林は、南山城地域の名所として広く知られていくことになる。また、明治37年(1904)に始まった日露戦争をきっかけに、梅干しの需要が高まり、茶畑になっていたところも梅林へと復し、生産梅林としても規模を拡大して現在の青谷梅林の基礎が築かれたのである。
大正15年(1926)からは、数多くなった観梅客のために、それまでの最寄り駅だった奈良線長池駅と玉水駅の間に、開花期の約50日にわたって営業する臨時駅の青谷梅林駅が開設された。これが昭和8年(1933)に常設駅、現在の山城青谷駅へと昇格することになる。

写真:青谷梅林に隣接する中天満神社。地域の鎮守社であり、地元の人たちによって整備され、梅まつりの際には会場にもなる。背後の森は黒土1号墳という横穴式石室を持つ楕円形墳。6世紀後半の地域首長の墳墓という
現在の城陽市では、青谷梅林を中心に50戸ほどの農家が、約20ヘクタールの畑で梅の栽培を行なっていて、京都府下で最大の梅の産地となっている。
「古い樹は50年近く経っているものもあるので、世代交代を踏まえて台木に接ぎ木をして苗木も育てています。桃栗3年、柿8年といい、梅は入っていませんが、しっかり実が取れるようになるには、7年・8年はかかりますね」と教えてくれるのは、生産農家の池野勝信(まさのぶ)さん。青谷梅林での梅栽培を受け継ぎ、73歳の現在も息子さんとともに梅林の維持・発展に取り組んでいる。梅林振興協議会の会長も務められてこられた。
池野さんたちが、梅林とともに明治時代から継承してきたものに、特産の梅品種「城州白」がある。「和歌山に南高梅があるように、梅産地ごとに代表する品種があり、青谷の場合は城州白がそれにあたり、古くから保護してきました」。「城州」とは山城国のことであり、まさに地域名を冠したご当地梅である。
大粒で香りがよい城州白を素材とし、それをアピールする製品も近年は多種作られている。青谷にはスイーツなどを扱う店舗があるほか、地元酒造会社では特徴を最大限に生かすために3年以上熟成させた梅酒を製造販売している。また、城陽市に本社を置き、京都を中心に展開する高級梅干し店でも、城州白の使用を前面に出した製品を販売している。池野さんの梅林で収穫した城州白も、それらの企業に出荷しているという。
池野さんのところでは自家でも梅干しを製造していて、地元の量販店に卸して販売してもらってもいる。そんな地元の梅製品が一堂に会して販売される機会が、毎年2月下旬から3月上旬ごろに開催される「青谷梅林梅まつり」である。昭和59年(1984)から続く観梅イベントで、約1万本の梅林の花と香りを目当てに、京阪神から多い年には延べ2万人が訪れる。
近年のコロナ禍、猛暑、そして鹿による食害などの問題があって、以前ほど盛大にはできなくなったと、梅まつり実行委員会のメンバーでもある池野さん。それでも「一般の多くの人と直接に触れ合えるこの祭りを、我々生産農家としては長く継続していきたい」と語る。その言葉には、明治時代に梅林による地域振興を図った人々の姿の反映を見るように思う。
「青谷の梅咲きたりとここかしこ人まち顔に鶯(うぐいす)の鳴く」。大和三門跡の一つ・圓照寺(えんしょうじ)の門跡でもあった伏見宮文秀(ぶんしゅう)女王が、明治23年(1089)に青谷を訪れた際の詠歌である。さえずる小鳥に春を告げられてゆく、梅林の散策が待ち遠しい。
更新:02月02日 00:05