2026年10月05日 公開

写真:宝塚市山本地区での植木・草花のハウス栽培風景。都市近郊の園芸産業の特徴という、少数多品種による生産が進められている
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
兵庫県宝塚市の阪急山本駅周辺一帯。長尾山の山麓から南に広がる丘陵地であるこの山本地区には、100あまりの園芸関係の事業者が集まり、日本三大植木産地の一つにも数えられる。
その成立の起源は、平安時代の荘園に遡り、この国の園芸文化の草創を垣間見させるものである。そして、そこには古代の大将軍の系譜に連なる武者たちの姿も見出される。それら先駆者のもと、花開いた近世日本の園芸世界、さらに近代の変遷をあわせて紹介したい。
※宝塚市の正式な市名表記は、「ヽ」のある「塚」の文字を使用します。
【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
写真:阪急山本駅前に立つ「木接太夫(きつぎだゆう)」の彰徳碑。大正元年(1912)に建立されて、木接太夫こと坂上頼泰(さかのうえのよりやす)の旧邸跡に置かれていたが、戦後の昭和23年(1948)に、園芸事業の復興と活性化をめざす地元青年たちの呼びかけを受け、駅前に移転された
江戸時代の日本は、園芸の普及、およびその技術において、世界的にも最高の水準に達していたといわれる。それを示す特筆すべき一例が、奇木・珍草を対象にした民衆の熱狂である。
江戸後期の寛政年間(1789-1801)、唐橘(からたちばな)を巡って世間は揺れ動いた。唐橘は、冬に小さな赤い実を付ける常緑小低木で、国内の広い範囲の山林で見られるが、その葉が斑(ふ)入り・縮みになり、実が黄色や白色という珍種の鉢植えが、京・大坂から出回り始めて次第に人気を呼び、高額で取引されるとともに全国へとブームが広がっていった。果ては、一鉢に数十両から数百両の値が付き、「百両金」とも称されるようになる。
大坂で開かれた唐橘のある品評会では、2300両の値の小品が出されたという記録も残る。米価格を参考にすると、現在の1億円を超える価格である。こうした状況から投機に走り、種子や苗に高額の出費を重ねて資産を失う者も現れた。
幕府は鉢植えの高価売買を禁止するが、とどまることなく、天保年間(1830-1844)に至ると、万年青(おもと)・松葉蘭(まつばらん)・石斛(せっこく・長生蘭ともいう)・蘇鉄(そてつ)・福寿草などの変種も、高値で取引されるようになる。それらの植物は「金生樹(かねのなるき)」とも呼ばれ、一時は道行く人の誰もが、その苗や鉢を持つという過熱ぶりであった。
天保12年から14年(1841-1843)の天保の改革による、奢侈(しゃし)禁止の厳しい取り締まりによって、「金生樹」の流行は終焉(しゅうえん)を迎える。しかし、これによって多くの珍品・奇品が、世間から消え去ることにもなった。
一方で同時期、庶民の間では、親しみやすい草花で「珍花奇葉」を楽しむブームもあった。朝顔である。こちらは文化・文政年間(1804-1830)、大坂・江戸で愛好家グループ「連」が自作の花合わせを繰り広げた第1次の流行以後、幕末の第2次、明治中期の第3次のブームへと栽培が引き継がれていった。
そうした、園芸の流行の背後にあったのが、植木商の存在である。大名を顧客とする大店から、天秤棒を背負って路地裏を売り歩く「振売(ぼてふり)」まで、社会の隅々にさまざまな植木・草花を普及させていった。その起源の一つを伝えるのが、宝塚市山本なのである。
写真:山本地区を通る京街道、地元では有馬街道ともいう。道沿いに植木商の樹木栽培場が見られる
山本での園芸の始まり、そこには歴史上に知られる武家が大きく関わっていた。
平安時代中期の天禄元年(970)、藤原摂関家と結び政界で地位を得た源満仲(みなもとのみつなか)は、摂津国多田(現在の川西市)に入部し、多田院(現在の多田神社)を設けて政所とした。これが源氏勃興の拠点となり、満仲は源氏本流の祖といえる存在になった。
満仲は、征夷大将軍・坂上田村麻呂から7代目にあたる検非違使(けびいし)・坂上頼次に近づき、御家人として迎えることに成功。頼次を山本の荘司(管理者)とした。頼次は一党の武士団を率いて山本の地に入り、以来、この地は坂上氏が支配していくことになる。
満仲の嫡男で摂津源氏の祖となった源頼光に仕え、酒呑(しゅてん)童子や土蜘蛛(つちぐも)を退治した武勇伝説で知られる「頼光四天王」。その一人、卜部季武(うらべのすえたけ)は坂上頼次の孫といい、田村麻呂をまつる山本郷の氏神・松尾神社は、季武の建立と伝えられる。
4代目の山本荘司となった坂上頼継も青年期より剛の者として知られ、「坂武者」と呼ばれた。奥州での反乱鎮圧「後三年の役」(1083-1087)では、八幡太郎・源義家に従い、劣勢のなかで奮戦し、敵将の首十八級を挙げて勝利へと導いたという。この頼継は、帰郷後、出家して大蓮坊を号し、山本北部の高台に館を建てて隠棲。牡丹(ぼたん)の畑を設けて栽培を専らとした。この花園は代々、坂上家に引き継がれて、園芸家・造園家を育てる基盤になったとみられる。
時代は下って鎌倉時代、12代山本荘司の坂上頼定は幕府に仕えたが、弘安2年(1279)に僧籍に入り、元珍坊を名乗った。元珍坊は、石を自然景観に見立てる「水石(すいせき)」の妙手で、時の鎌倉将軍・久明親王のもと、御庭奉行を務めたという。
さらに時を下った天正元年(1573)、坂上頼泰が34代目山本荘司であったときのこと。織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府が消滅する。これを受けて、信長配下の地元国人、塩川国満が山本に侵攻。頼政は荘司の座を追われることになる。
天正13年(1585)、齢(よわい)70を迎えていた坂上頼泰だが、関白の座に登り詰めた豊臣秀吉のもとに仕官。家業である園芸の技術をもって山本の庭師数百名を率い、大坂城・聚楽第(じゅらくてい)・伏見城などの庭園の築造を手掛けて貢献する。この功に報いて秀吉は、必需品以外の生産を規制した際にも、山本の園芸業者に対しては栽培と販売の許可を与えたという。また、頼泰は、千利休が茶席に用いる茶花の手配も引き受けている。
文禄元年(1592)、頼泰は「文禄の役」の本陣、九州名護屋城まで老いを押して出陣し、秀吉の警護に就くが、これを最後に武士の地位を返上。以後、山本膳太夫を名乗って山本の大庄屋となり、園芸のほか、酒造・銀山開発・両替業などを手掛けた。文禄2年(1593)には、頼泰が接ぎ木の名人であるという噂を聞いた秀吉に呼ばれ、面前で技を披露。感激した秀吉から、「木接太夫」の称号を賜った。4年後の慶長2年(1597)、頼泰逝去。享年83であった。
写真:17世紀のイギリスの地方旧家をモチーフにしたという「あいあいパーク」の外観。新しい時代に対応した地元園芸産業の活性化と震災復興を目的に、平成12年(2000)にオープン。植木の展示即売所のほか、花と緑の相談所、園芸関連書のライブラリーなども併設する。令和8年(2026)秋の「宝塚植木まつり」は、10月9日(金)から12日(祝)に開催。山本新池公園とあいあいパークでは、兵庫県・宝塚観賞植物品評会を同時開催
江戸時代の園芸発展の起点となったのは、徳川三代の家康・秀忠・家光がそろって「花癖(かへき)」といわれる園芸趣味の持ち主であったこととされる。特に徳川家康と秀忠が椿を好み、その影響から寛永年間(1624-1644)に京と江戸の公家や大名の間で、椿の珍品に対する流行があり、品種を網羅した図譜も複数、出版された。
正徳から享保(1711-1736)のころには、京の富裕層の間で菊花が流行。円山を中心に開催された品評会「菊合わせ」が江戸にも広まり、勝ち負けに一喜一憂するようになる。
享保6年(1721)、8代将軍・徳川吉宗が小石川薬園を設ける。吉宗も園芸への造詣が深く、墨田川堤などに桜を植えて行楽地とし、庶民の花見が盛んになる。こうしたことを受けて、18世紀半ば以降、園芸趣味が都市民衆へと広がり、植木から扱いやすい鉢物へと主流が移る。ここから奇木・珍草への嗜好(しこう)が生まれ、江戸後期のブームを呼ぶのである。
需要の増加とともに、木接太夫のあとを継ぐ山本の園芸業者も発展を見せた。江戸時代当初は、農業の傍らでの植木栽培であったが、文化5年(1808)には、専業者が36戸を数えた。古来の牡丹栽培も受け継がれ、将軍家や諸大名、長谷寺・当麻寺・平等院などの寺院、さらには九州・東北まで苗木が出荷された。また、杉・檜(ひのき)などの山林苗木も手掛け、筑前福岡藩へ100万本を出荷したという記録がある。
近代を迎えると、山本の園芸事業はさらに拡大する。明治6年(1873)には、園芸の将来性に着目した兵庫県令の神田孝平の呼びかけを受け、ユーカリ、バラの苗を輸入して栽培を開始。以後、洋蘭など西洋植物の栽培が地域に広まっていく。明治20年(1887)には、山本周辺にも植木生産農家が増加して300戸に及んだ。
明治30年(1897)、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の池田・宝塚間が開通。翌年、官営鉄道の神崎に接続し、大阪・宝塚間の直通が実現した。輸送が容易となり、山本の園芸は一段と活発になる。明治36年(1903)には、大阪天王寺での第5回内国勧業博覧会の開催にあわせて、山本に臨時の花園駅を設置し、駅前に牡丹縦覧場を展開。その見事さに観客は驚嘆したという。
それに先立つ明治33年(1900)には、植物御苑掛長でのちに同苑の新宿御苑への改造を果たした福羽逸人によって、パリで開催中の万国博覧会に、山本の牡丹50種250本が出品されている。
明治43年(1910)、箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)の梅田・宝塚間が開通。山本地域に駅が設けられて来訪者が増え、地域はさらに飛躍を見せ、園芸を専業とする農家が増加する。大正時代から昭和にかけて、「日本の植物分類学の父」牧野富太郎もしばしば山本を訪れている。
成長を続けてきた山本の園芸産業であったが、太平洋戦争末期には生産停止となる。しかし、戦後、園芸復興の先駆として立ち上がり、現代の園芸業界の一翼を担ってきた。
「樹木と植木の違いは、その地に生えたままの木と、移植することができる木の違いです。『根回し』という言葉はビジネスの場でもよく使われますが、本来は植木を移植するのに先立って、木の根の周囲を切り詰めて細根を発達させておくことをいいます。そして、地面から取り出した木の根鉢を、布や縄で包んで丸める『根巻き』をして保護する。これは植木職人の腕の見せどころの一つです」と教えてくれたのは、今回の取材と資料の提供で協力していただいた、宝塚市花き園芸協会会長の金岡栄興(ひでおき)さん。植木商の株式会社撰樹園の13代目でもある。
「例えば、先の大阪・関西万博であったりすると、膨大な植栽が必要で、それは全部、いわゆる植木です。それを3年も4年も前から準備して、そこに何十年も前から育っていたように植えます。これは本当にすごいことです」と、金岡さんは現代の植木事業の意義を語る。
山本で代々営んできた植木商を引き継ぐ金岡さんには、近年の地域について思うところもある。都心への交通の便がよく、郊外の良好な環境ということで、地域の宅地化が進み、地場産業として新たな対応の必要を感じてきた。
山本地区は、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた場所でもある。その復興事業の一つとして設けられた宝塚市立宝塚園芸振興センター(あいあいパーク)は、新たな対応の形の一つという。「植木や草花の展示即売のほか、レストランやパン屋さんなどもあって、地域の人、また遠方の人も、あそこに行こうよといってもらえる。そんな自然に人が集い、園芸に親しめる場になっています」。市と地元事業者が共同して、前向きに運営できていることが成果につながっているという。
宝塚市花き園芸協会は、春秋に「宝塚植木まつり」を主催。この10月にも、あいあいパークに隣接の山本新池公園で開催される。今回で145回目を数える地域の恒例行事である。植木や花苗、多肉植物などの販売のほか、ワークショップやオークション体験、キッチンカーの出店もある。
「最近は、子どもたちも土や緑に触れる機会が少なくなっています。植木まつりを通して園芸の世界に、家族で触れて楽しんでもらえたら」と金岡さん。園芸事業者が、直接に顧客と顔を合わせることができる機会ともいう。掘り出しものの植木や草花を見つけに行きたい。
更新:10月05日 00:05