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「大阪浪華錫器」に宿る歴史と職人技 酒器に人気の理由とは?

2026年09月07日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)

大阪浪華錫器の製品〔写真提供:大阪錫器株式会社〕写真:大阪浪華錫器の製品〔写真提供:大阪錫器株式会社〕。昔ながらの形の一方で、現在のニーズに応える新たなデザインも開発されている

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

錫(すず)は、もっとも古くから器の素材として利用されてきた金属である。大阪においては、江戸時代以来、職人たちによって錫の器の製造が進められ、一般の生活に錫器(すずき)を普及する拠点となってきた。特に、杯や徳利などの錫の酒器は、手触りがよいうえに、酒を一段と美味にするといわれる。また、密閉性に優れ、湿気を通さない茶壺(ちゃつぼ)・茶筒は、茶葉に最適な保管容器として重宝されてきた。

手工業による錫器の製造は現代へも受け継がれ、昭和58年(1983)には、「大阪浪華(なにわ)錫器」として経済産業大臣が指定する伝統的工芸品にもなっている。現在の国内錫器生産の多くを占めるという大阪市の事業所を訪ねて、錫器の歴史とともに大阪のものづくりの系譜をたどった。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

錫──人類の文明創生とともにあった金属

大阪御堂筋・三津寺あたり写真:大阪御堂筋・三津寺(みつてら)あたり。現在はブランドショップやホテルが建ち並ぶショッピングと観光の中心地だが、かつてはこの周辺も錫細工などの職人たちが住む、ものづくりの町であった

人類が石器の時代を経て、最初に多様な道具の素材とした金属が青銅であった。その青銅とは、銅に錫を加えた合金である。紀元前3000年ごろ、中東・メソポタミア地域で使用されるようになったという。鉄器の製造が可能になるまで、その時期は青銅器時代と呼ばれる。

日本には弥生時代の紀元前4世紀ごろに青銅器が伝わり、紀元前1世紀ごろには国内でも生産されるようになる。伝来が鉄器と同時期であったことから、日本では青銅は主に祭器の素材として用いられ、遺跡発掘で見出される銅鐸(どうたく)・銅矛・銅剣・銅鏡などはこれを鋳造して製作したものである。この国の黎明(れいめい)においても、錫は欠くことができないものであったといえよう。

錫を主素材とする錫器としては、紀元前1500年ごろのエジプトの都市遺跡から発見された錫製の水壺が最古という。日本には飛鳥・奈良時代の7世紀から9世紀に、遣隋使・遣唐使によって錫器が輸入されたと見られ、奈良東大寺の正倉院に丸い形の錫製の薬壺(やっこ)3点が現存するほか、錫成分が多く金色を呈する青銅「佐波理(さはり)」の水瓶(すいびょう)などが伝えられている。

『続日本紀』には、文武天皇4年(700)2月のこととして「丹波の国に錫を献ぜせしむ」と記す。これが錫に関する国内で最初の文書記録と見られる。

錫の融点は摂氏230度ほどと低く、薪の火や炭火で容易に溶かすことができる。また、柔らかく、加工しやすい。大阪浪華錫器の場合は、製品ごとにおおまかに鋳造したうえ、これを轆轤(ろくろ)に取り付けて回転させながら、削り出して制作する。

この轆轤による製造方法は、一説に、鎌倉時代初期に禅を伝えた栄西が、茶の普及を図って茶壺作りの職人を中国より招いたことが始まりといわれる。

錫は腐食しにくい安定した金属であり、飲食物の容器に使用しても毒性がない。この特性を踏まえて、古来、錫器は水や茶などの器として用いられてきたことがわかる。中世に入ると、特に酒を入れる瓶子(へいし)や徳利として公家や武家の間に普及し、「すず」が徳利の代名詞、さらには酒の隠語として使われるようにもなる。

京都御所に仕えた女官たちの当番日記『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』の文明16年(1484)七夕の日の記録には「お銚子(ちょうし)ともにて、御局(つぼね)々へすずつかわさるる」という記述がある。イエズス会が編纂(へんさん)し、慶長8年(1603)に長崎で発刊した日本語辞書『日葡(にっぽ)辞書』では、「すず」を酒を入れる錫製の徳利・瓶と解説している。

神前に酒を備えるための一対の瓶子・御神酒(おみき)徳利も錫で作られて奉納され、各地の神社に江戸時代の古い製品が残り、現在においても錫器の代表的製品の一つである。

 

近世に京都から移転。発展する大阪の錫器産業

大阪錫器の工房で「錫挽き」作業をする職人さん写真:大阪錫器の工房で「錫挽き」作業をする職人さん。轆轤で回転する錫素材を「かんな」と呼ぶ道具で削って形にしていく

日本での当初の錫器の生産地は京都であった。貴重な素材であった錫の器を利用できるのは、公家などの限られた人々だけだったからである。しかし、近世になり、大阪が商都として繁栄するのにあわせて、次第に錫器の生産者が大阪に集まるようになっていく。

錫器の素材である錫は、海外から輸入されていたとみられるが、江戸時代前期の17世紀中ごろ、九州薩摩の谷山で国内有数となる錫鉱山が発見され、元禄14年(1701)には、薩摩藩が幕府の採掘許可を得て錫山の開発を進め、以来、採掘された錫は上方に盛んに出荷されるようになる。大阪での錫器の生産も増大し、一般に広く普及する契機となった。

ちなみに現在の鹿児島県において、伝統的工芸品として薩摩錫器が製造されているが、これは地元産の錫を活用して殖産を図ることを目的に、京都から職人を招いて開始した錫器作りを引き継ぐものである。

延宝7年(1679)に刊行された、大阪の情報をまとめた冊子『難波雀(なにわすずめ)』に、諸商人・職人の所在地として「錫引、堺すぢ」という記載がある。「錫引」とは「錫挽(ひ)き」のことで、錫材から器を削り出す職人をいい、このころの大阪ですでに錫器の製造が行なわれていたことがわかる。

正徳4年(1714)には、のちに「錫半(すずはん)」の名で知られた老舗の初代、錫屋半兵衛が心斎橋北で創業。錫半は平成8年(1996)に廃業してしまったが、戦後、大阪の錫器工房の製品を扱う商社として名高い存在であった。

近世中期以降も大阪市中に錫器業者は増加し、当時の買物案内や商工業者を紹介する古書には、心斎橋筋や御堂筋を主な所在地とした「錫屋」「錫挽き」「錫道具」「錫細工所」を称する数々の店舗が掲載されている。

 

戦時の金属供出時代の困難を越えて

「たんぽ」の口部と取っ手の「ろう付け」作業写真:「たんぽ」の口部と取っ手の「ろう付け」作業。全国的には「ちろり」と呼ぶことが多いようだが、関西では「たんぽ」という。居酒屋やおでん店などで親しまれてきた酒器である

「戦前の最盛期には、都心部を中心に大阪市内に錫器を製造する事業所が50ほどあり、およそ300人の職人が従事していました」と、教えてくれたのは、大阪市東住吉区田辺に工房を構える大阪錫器株式会社の代表取締役社長・今井達昌さん。大阪浪華錫器の伝統工芸士で、卓越した技術者として国の表彰を受けた「現代の名工」の一人でもある。

同社の起源も遡ると、京都の錫器につながるという。江戸時代の後期、京錫の流れを汲む錫屋伊兵衛こと芝伊兵衛が、大阪心斎橋、三津寺の近くに錫屋を創業。その二代目、伊助のもとに、明治中期、今井栄吉が弟子入りし、明治43年(1910)に独立して今井錫器工場を設立する。

その栄吉のもとで修業し、娘婿となったのが今井彌一郎(やいちろう)で、達昌さんの祖父にあたる。大正時代に彌一郎は独立し、大阪工芸協会会員となって活動する。独立当初に事業所を置いたのは、大阪市内の高津だったという。

錫器産業にとって苦難の時期となったのが、戦時であった。昭和13年(1938)に成立した国家総動員法、同16年(1941)に公布された金属類回収令によって、「はんだ」などの原料である錫は、軍需物資として官民の供出の対象となった。素材である錫の入手が不可能となり、錫器の生産は停止することになる。また、職人たちは兵士として招集され、多くの事業所があった大阪中心部は、空襲で焼失することにもなった。

そうしたなか、彌一郎は軍需工場に動員されたが、兵役年齢を超えて徴兵されなかったほかの職人たちと、当時の商工省から技術保存のために提供された少量の錫素材をもとに、技術を失うことがないよう、夜間に錫器の製造を続けたという。

こうした努力があって戦後いち早く、昭和24年(1949)に彌一郎が北田辺に設立したのが、大阪錫器株式会社であった。もともと戦前の錫器製造所が個人や少人数の事業所であったこともあり、同社は復員した職人たちの受け皿ともなり、事業を広げることになる。

昭和55年(1980)に彌一郎を継いで二代目社長となったのが、娘婿の今井潔氏で、達昌さんの父である。潔氏は轆轤挽きの名人といわれ、大阪浪華錫器の伝統的工芸品指定においても尽力されたことで知られる。

「伝統的工芸品の指定を受けた際、大阪の錫器の事業所は9社でしたが、今は2社のみになりました。ただし、事業所は減少しながらも、錫器の生産数は減少していません」と達昌さん。というのも、現在の国内で製造される錫器の7割を大阪錫器社が作り、生産を支えてきたからである。

「技術の継承といっても、一人の職人が一代で次の代につなぐのは難しい。複数の人間が複数の者に順番に伝えていくことが必要です」。大阪錫器社には、大阪浪華錫器の伝統工芸士のすべてにあたる、達昌さんを含めた5人の伝統工芸士が在籍。働く職人は20名ほどで、20歳代も幾人か就業している。「皆、頑張って工芸士になれるよう、育てていければと思っています」。祖父・父の抱いた錫器作りの発展への思いもまた、達昌さんに受け継がれている。

錫器の表面には、滑らかな「磨き」のほか、細かい凹凸加工を施して風合いを加えた製品があり、そのなかには「さざなみ」模様もあって、これは達昌さんの職人としてのオリジナルである。大阪錫器社では、このほかにも新たな製品の開発に意欲的に取り組んでいる。「よくいうのは、伝統工芸品は止まったら終わり。昔からの製品がなくなるわけではありませんが、生活スタイルの変化に応えて需要を生み出していかないといけない。それができないと使ってもらえず、売れません。そうなると、作る人がいなくなり、昔はこんなのがあったけどということになってしまう。そうならないためには、今の生活様式のなかに入っていく必要があるのです」。

錫器が熱伝導にも優れることから、燗(かん)をする酒器として、徳利や「たんぽ」が昔から愛用されてきた。近年はそれらと並んで、ビールなどの冷たい飲料に最適というタンブラーが売れ筋という。その手触り、口当たりはいかばかりか。

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