
ヴェルニー公園の小栗上野介忠順像(撮影:PHPオンライン編集部)
幕末において日本の近代化をリードした小栗忠順(おぐりただまさ/上野介)。青年期の彼は、花見に出かけても桜や酒、女性に関心を示さず、川の治水について熱弁を振るうような「空気を読まない」人間であった。頭脳明晰で、他人の言葉に流されず、己の信じる道を突き進む自信家であったとされる小栗。その豪胆さが窺える14歳の姿とは...?同時代人の証言や幼少期のエピソードから、2027年大河『逆賊の幕臣』主人公・小栗忠順の素顔に迫る。
※本稿は、安藤優一郎著『幕臣・小栗忠順の真実』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
三河譜代名門の旗本の一人っ子として将来が約束されていたためか、忠順は怖いもの知らずの性分を青少年期から発揮した。当時の忠順を知る者たちの証言から、その人物像に迫ってみる。
安積艮斎(あさかごんさい)塾の同門の間柄でもあった旗本の栗本鋤雲(くりもとじょううん)は、忠順の良き理解者だった。栗本は塾での日々を回顧し、次のように語る。
講義の席での忠順は寡黙で、一見他の者と少しも異なるところはないが、執拗剛腹で、意地っ張りであった。
自分の意見や主張にこだわる性格とともに、大胆で物怖じしない姿が見えてくる。いたずらをする時は餓鬼大将として、子供たちを手足のように使う力を持つとも栗本は証言しており、部下を駆使して改革に邁進した後の姿の片鱗をみせている。
他人の議論を傾聴することはなく、他人の見識に黙って従うこともなかったため、理屈屋とも評されたという。自己主張が強い、自信家の姿が見えてくる。臆せずに自己の信じる道を突き進んだことで周囲からは浮いてしまい、反感も買いやすかっただろう(戸川残花「史伝 小栗上野介」『旧幕府』四巻七号、旧幕府雑誌社)。
同い年の旗本朝比奈昌広の誘いで、隅田川へ花見に出かけた時のエピソードは興味深い。後年、朝比奈は外国奉行や勘定奉行などを歴任し、忠順と似た経歴を歩む。
その日は隅田川に屋形船を浮かべ、桜の花を愛でながら酒肴を楽しむ趣向だった。ところが、忠順は桜の花も酒もお酌する女性にも関心がなく、隅田川の堰の高低について語った。治水上の得失を話題にしたため、仕事を離れて隅田川の花見を楽しんでいた朝比奈たちは呆れる。隅田川の利水についても話題に出し、水田への効果を尋ねた。周りの空気を読まない言動に、その場は興醒めしたに違いない(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野』(正続合本 復刻版、マツノ書店)。
遊興の際も、河川を見れば為政者として治水や利水が頭から離れなかった、仕事人間としての顔を覗かせている。
忠順については、風流韻事を理解しない「冷腸漢(れいちょうかん)」との評価もある。詩文に耽らず、酒を嗜まず、歌舞音曲や女性も近付けないというわけだが、書画を愛好する趣味は持っていた。しかし、自分の前で書かれた書画以外は否定する。宋の時代にせよ、明の時代にせよ、古人の書画は鑑定家による憶測に過ぎない以上、そんな真偽不明なものを愛蔵するのは不見識の至りと考えたからである(塚越芳太郎「小栗上野介」『読史余録』民友社)。
一連の評価から、忠順が変わり者と思われていたことがわかるが、物怖じしない豪胆さをみせたエピソードとしては、次の証言が残されている。
忠順が14歳の時、播磨林田藩主建部政醇(たけべまさあつ)の上屋敷を訪れたことがあった。建部家は1万石の外様大名で、原則として幕府の役職には就けなかったものの、政醇は大番頭や奏者番を歴任する。
大番頭は、旗本が務める五番方のうち、筆頭格の大番(12組)の長だった。高禄の旗本のほか、小大名が務めることもあった。奏者番は年始や五節句など殿中で儀礼が執り行われる際、あるいは大名や旗本が将軍に拝謁する際に、その取次役や進物の披露役を務める役職で、譜代大名のうち若手の優秀な者が選任された。
それだけ、政醇は外様大名ながら能力を評価されたのだろう。建部家の上屋敷は神田駿河台にほど近い神田明神下にあった。
建部家を訪れた忠順の挙動はまったく大人のようだった。言語は明晰で、声も張りがあり、はっきりと響き渡った。応対も堂々としており、「巨人」の風があった。14の少年でありながら、煙管でタバコをくゆらし、煙草盆を強く叩きながら、政醇と一問一答を交わしたため、同家の人々はその高慢さに皆驚く。後世、どのような人物になるのだろうかと噂し合ったという(蜷川前掲書)。そこからは、物怖じしない豪胆な姿が浮かび上がってくる。
この証言は、旗本の家に生まれた国際法学者蜷川新が、母ハツの実家である林田藩士から伝え聞いたことだった。ハツは政醇の娘であった。
政醇も家臣と同じく、忠順の振る舞いには驚いただろう。その後、嘉永2年(1849)に娘の道子が忠順のもとに輿入れしている。その将来性に期待して、娘婿とすることを承知したのかもしれない。道子とハツは姉妹であったため、ハツの子である蜷川は忠順の甥にあたっていた。
そんな我が道を行く独立不羈(ふき)の生きざまは、忠順の人生を波瀾万丈なものにするのである。
更新:08月10日 00:05