2021年06月08日 公開
2023年01月30日 更新
回天神社(茨城県水戸市)…安政の大獄、桜田門外の変、天狗党の乱などで国事に殉じた水戸藩士を中心とした志士を祀る。社名は藤田東湖の『回天詩史』に由来。
大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれた天狗党の乱とは、何だったのか。なぜ、彼らは挙兵し、一橋慶喜を頼ったのか。そして、それが慶喜にもたらした意外な結末とは──。
幕末史をリードした藩として水戸藩は、筆頭格だろう。尊王論や攘夷論の最大の発信源となった水戸学を奉じる藩として、尊王攘夷運動を牽引する歴史的役割を担った。
それゆえ、水戸藩主徳川斉昭や腹心の儒学者藤田東湖は、全国の尊攘派志士から崇敬される存在となるが、実は藩内に大きな爆弾を抱えていた。
斉昭は水戸藩の天保改革と称される藩政改革を断行した藩主だが、その際に門閥層の上級藩士を退ける一方で、下級藩士を大いに抜擢する。
しかし、この人事は藩内に軋轢を生み、改革に批判的な藩士が、抜擢された藩士を「天狗」と呼んで揶揄する事態を招いた。改革派には下級藩士が多く、成りあがり者が天狗になって威張っていると批判したのである。
水戸藩は藩内対立を抱えながらも、斉昭の強力なイニシアチブのもと幕末史をリードしたが、将軍継嗣問題や通商条約勅許をめぐり政敵となった大老井伊直弼と激しく対立する。
その結果、幕府の弾圧を受け、斉昭自身、安政6年(1859)8月に国元での永蟄居という厳罰に処せられた。世に言う安政の大獄である。
翌万延元年(1860)8月、赦免されないまま斉昭はこの世を去るが、水戸藩は斉昭の遺志を継いで尊王攘夷を目指す「天狗党」と呼ばれた藩士と、斉昭の政治姿勢を危ぶみ、幕府の意向に従うことで水戸藩の安泰をはかる藩士に分裂して、対立を深めていく。
そんな藩内抗争が戦争にまで発展してしまったのが、元治元年(1864)に起きた天狗党の乱であり、苦渋の選択を迫られたのが、斉昭の七男で一橋家に養子に入っていた慶喜だった。
以下、慶喜が自分を頼った天狗党の討伐に向かわざるを得なかった理由と、幕府による過酷な処断が、慶喜や幕府の立場を危うくする結果を招いた背景を探ってみる。
慶喜が幕末史に登場するきっかけは、幕政進出をはかる親藩大名や外様大名(一橋派)から、将軍継嗣として推されたことである。
一方、それまで幕政を担ってきた譜代大名は、紀州藩主徳川慶福を推していた(南紀派)。継嗣をめぐる争いは南紀派の勝利に終わり、慶福改め家茂が十四代将軍の座に就くが、両派の対立は終わらず、安政の大獄へと帰結する。慶喜は将軍職など望んでいなかったが、巻き添えを喰う形で隠居・謹慎を命じられた。
桜田門外で井伊直弼が殺害された後、慶喜は謹慎を解除されるが、政治的に復権したわけではなかった。しかし、朝廷の権威(勅使)を後ろ盾として幕府人事に介入してきた薩摩藩の後押しにより、文久2年(1862)7月に将軍後見職に就任し、政局の表舞台に再登場する。その時、慶喜は一橋家を再相続しており、名実ともに現役復帰した。
当時、幕府は朝廷から破約攘夷の実行を強く求められていた。攘夷主義者の孝明天皇から、その妹和宮を家茂の御台所とする許可を得るため、欧米列強と結んだ通商条約を破棄して攘夷を実行すると、約束してしまったからである。長州藩はこの約束を楯に、攘夷実行を幕府に強く求め、一時政局の主導権を握る。
ところが、文久3年(1863)八月十八日の政変により長州藩が失脚すると、政変の黒幕である薩摩藩など国政進出を目指す大名たちが上京してくる。長州藩に代わって、朝廷のもとで政局の主導権を握ろうと目論んだのだ。政変当時は江戸にいた慶喜も上京する。
もともと薩摩藩(藩主島津茂久の父久光)のバックアップで復権を果たした慶喜であったが、国政進出を目指す久光たちの動きに警戒を強める。慶喜も徳川家の一門である以上、外様大名の国政参加は本来望むところではなかった。
当時、最大の政治課題は依然として破約攘夷の問題であった。長州藩は失脚したものの、幕府が天皇に約束した破約攘夷の方針は生きていた。ただ幕府や諸藩の間では、それは現実的でないというのが共通認識になっていた。外国との戦争を招きかねないからだ。
久光は諸大名の意見を代表し、朝廷の会議で破約攘夷の撤回を訴えようとするが、慶喜は敢えて破約攘夷を唱える。それは天皇が強く望むところであり、その信任を得るための方便だった。慶喜自身は西洋文明への関心が強く、開国派に他ならなかった。
破約攘夷の主張により天皇の信任を勝ち取った慶喜は、元治元年3月25日に将軍後見職を辞職し、朝廷から御所警備の最高責任者である禁裏御守衛総督に任命された。慶喜への信任は、ここに極まったと言えるだろう。
更新:11月24日 00:05